智恵子抄(23) 高村光太郎

今日は高村光太郎の『智恵子抄』その23を公開します。縦書き表示で全文読めますよ。
 
 
これは、高村光太郎の一番有名な詩かもしれません。改めて読んでやっぱり印象深いです。今回のはちょっとぜひ、読んでみてください。ほんの1ページの詩です。
 
 
この詩の半分以上は、智恵子が作ったように思います。第一文目が忘れがたい言葉です。詩人がそれを受け継いで、詩に昇華しています。
 
 

 
 
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日記と自叙伝 三木清

今日は三木清の『日記と自叙伝』を公開します。縦書き表示で全文読めますよ。
 
 
三木清は、この『日記と自叙伝』で、さまざまな日記作品と自叙伝について語っています。あのー、ゲーテはこういうことを書いているんです。
 
 
『どの詩の下にも、いつ作ったかという日付を書いておくことだね。そうしておけば、それがまた同時に君の心の状態の日記として役立つことになる。これは馬鹿にならないことなのだ。私は何年も前からそうしてきているから、その重要さがよくわかっているのだ。』ゲーテ
 
 
これは、詩と日記が融合したもので、これすごいものだなと思いました。ゲーテはご存じの通り、詩の言葉だけで、大長編の演劇「ファウスト」を描きだして、詩劇という世界を開拓したんですが、詩日記も書いていることになる。


日記の本というと、『ウィトゲンシュタイン哲学宗教日記』が好きで、ものすごく印象に残った箇所があるんです。それはある病について、ウィトゲンシュタインが考察した箇所です。病のために、他人の顔を見分けられなくなった男のことについて、ウィトゲンシュタインはこう書いているんです。

  私が言いたいのはこういうことだ。我々が人間を「認識する」のは当たり前のことであり、もし誰かが人間を認識できないとそれは完全な崩壊である、と我々は考えているように見える。しかしこの認識という石が建物から欠けることは実際にありうるのであって、その場合も崩壊が問題になったりはしないのだ。

  つまりこういうことだ。我々は自分たちが持っているものすべてを当たり前とみなしており、自分の理性の完全性にとって不可欠に見えるので個別特殊な能力とは決して思っていないしかじかの物がたとえ無くなっても、自分たちは完全でありうる、ということをまったく知らないのだ。
 
 
ウィトゲンシュタインはおもしろい哲学者で、たとえば、数字を数える時に、「6」という概念だけが彼の認識世界から完璧に消え去っている男が居ても、その男が居るせいで、男の所属する組織とか社会がガラガラっとぜんぶ崩れ落ちる、なんてことはありえないんだ、と言ったりするんです。それどころか、そいつは、ちゃんと数を数えることさえできるぞ、とウィトゲンシュタインは言うんです。どうやって6という概念を失っていても数が数えられるかというと、「12345、えー789」と数えて、ここで男はいつもこう思うわけです。「そろそろオマケしてやらんと、みんなが不平を言い出す」と言って、9を2回数えたりする。「いやここ6でしょ」と言われても6という概念を持っていないから「55でしょ」くらいにしか聞こえないんだけど、最終的には、「5の次には1っこオマケしてやらんといかん」と、かなり正確に数を数えるようになる。ようするに、外から見ると、数を数えるときに、そいつは変なクセを持っている、くらいにしか思わないわけです。
 
 
三木清は日記文学の魅力について、そこでは他人をまのあたりにすると同時に、自分をもまのあたりにする、と書いています。他人のことを知りつつ、自分の中のなにかを発見する、という。三木はゲーテの自叙伝「詩と真実」を推薦しています。
 
 
また文豪トルストイは、哲学者アミエルの「ひそかな日記」という作品を絶賛していたそうです。いつか読んでみたいです。
 
 

 
 
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それから(10) 夏目漱石

今日は夏目漱石の「それから」その10を公開します。縦書き表示で全文読めますよ。
 
 
この詩的な表現が印象に残りました。原文はこうです。
 
 
  代助は時々尋常な外界から法外に痛烈な刺激を受ける。それがはげしくなると、晴天から来る日光の反射にさえ堪え難くなることがあった。そう云う時には、なるべく世間との交渉を稀薄きはくにして、朝でもひるでも構わず寐る工夫をした。その手段には、極めて淡い、甘味の軽い、花のをよく用いた。
 
 
春に、幼子が一人で山に入っていって花のつぼみをじーっと見ていると、その生命の力のあまりの強さにやられてしまって、一時的におかしくなってしまい、佯狂のようになることがあるんだと、いう噂をきいたことがあるんですけど、代助はそういう敏感な心情を、大人になってもまだ持っている。そういう時に、代助は、あわい花の匂いをかいで心を落ち着けるのでありました。
 
 
代助は無職でぶらぶらしているだけなのに、ずいぶん賢く社会を分析している。いっぽうで数多くの警察官が、詐欺師と結託して悪事をしているという新聞記事が載っている。
 
 
なぜそういうことが起きるのかというと、彼らには不安があるから犯罪に近づくのだと、代助は考える。たしかに代助は金だけはあるから、不安な状況に接する機会が少ないし、若い警察官は家族を養ったり、犯罪に対処したり、さまざまな不安がある。つまり代助はまだ過保護にされている金持ちの子どもと同じかもしれないと思いました。
 
 
その代助の、堂々とした昼寝姿を、平岡の妻がやってきて、じーっと見てから、あんまりぐうぐう寝ているものだから、起こすのも気が引けるし、あきらめて帰っていった。
 
 
女が不思議なことをするんですよ。その行為を「詩のために」やったのか、あるいは喉が渇いていたからやったのか……。
 
 
平岡の仕事はなんとかなりそうだが、やはり金回りが危うい状況である。女は、代助から借りた金を、生活のために使ってしまったのだとあやまりに来たのだった。「貴方にあげたのだから」どう使ってもらおうと、かまわないのだと、主人公は言います。
 
 

 
 
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智恵子抄(22) 高村光太郎

今日は高村光太郎の『智恵子抄』その22を公開します。縦書き表示で全文読めますよ。
 
 
これは現代的な方法で詩を描いているように思いました。アメリカから輸入された自己啓発書のような、シンプルにひとつのことを推薦する、文章みたいです。
 
 
智恵子やあるいは女性へ書いた詩です。なぜか、老いることの美しさを描いているように思いました。
 
 

 
 
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郷愁 佐左木俊郎

今日は佐左木俊郎の「郷愁」を公開します。縦書き表示で全文読めますよ。
 
 
あのー、インターネットが普及してから、距離感がすごく変わったと思うんです。以前、時間のヒエラルヒー(時間軸の日本地図)というのが有名になって、それは東京駅と大阪駅はめっちゃ近いけれども、東京駅から東京都奥多摩町の天祖山はめっちゃ遠いっていうことを目で見分けられるようにした地図なんです。
 
 
ネットが普及して、またこういう地図の変化が起きたような気がするんです。「距離と意味というのがぜんぜんちがうぞ」というのが、現代人の新しい感覚ではなかろうかと、最近思っています。
 
 
マンションの右ナナメ上方に住んでいる人は、距離がものすごく近いんだけど、一生縁が無いはずで意味はそうとう遠い。単身赴任している夫とは距離がすごく遠いけど、意味はそうとう近い。
 
 
そういう距離と意味でギャップの生じる現代化が、こんどは情報や感情においても起きてきたのが、現代だと思うんです。ネットばかり使っている自分が言うのもなんなんですが、この情報と感情の大混雑状況に疲れた場合は、そういうものが整えられた本屋公共図書館のほうへ向かってゆくのが、良いんじゃないかなというのが、自分の持論です……。
 
 
農民出身の佐左木は、この掌編小説で、古里への郷愁のことを書いています。上野駅で、古里への道のりを確認するためだけに、路線地図を見にゆくという、奇妙な癖を持っている男たちの話しなんですよ。かつて、「かなし」というのは、悲しいというのと、愛しいというのと、両方の意味があったそうなんですけど、佐左木の描きだす悲しさにはそれがあるように思いました。
 
 

 
 
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それから(9) 夏目漱石

今日は夏目漱石の「それから」その9を公開します。縦書き表示で全文読めますよ。
 
 
平生から妙に気になっているのに、言語にできなかったことを、漱石がみごとに描きだしているのがなんというか、毎回衝撃です。
 
 
父から金をもらって暮らしている代助は、父と逢うのを避けたいんです。それは、どうしてかというと、腹を割ってあいたいしようとすると、どうしても相手を侮辱してしまっているような部分が生じてしまう、これが自分で堕落だと感じているからなんです。原文はこうです。
 
 
  代助は人類の一人いちにんとして、互を腹の中で侮辱する事なしには、互に接触を敢てし得ぬ、現代の社会を、二十世紀の堕落と呼んでいた。
 
 
あのー、ある種の美術作品は、人の心を癒すことを主眼に置いているのに、美術館には本当に今美術を欲している人はやって来られない、と、ある美術家が言っているんです。文学も、そういう本来の受け手に届かない、という不着の問題があるように思います。
 
 
漱石の作品はほんとうに、高等遊民(現代で言うと知的なNEET)の男のために書かれたもんだと言って過言で無いもんで、漱石はそもそも、明治後期に長らく学校の先生をしていたわけで、その頃一番目についた問題は、知的なのに、自分の仕事を持てない若者がいっぱいいると、そこを漱石はじーっと見ていたわけで、じっさい漱石の講演録でも、そのことが良く主題として取り上げられていますし、今回の「それから」はまさに、直球で、頭が良いんだけれども働かない男たちを描いているわけで、完全にNEET仕様になっておるわけなんです。
 
 
今回、主人公の父の人生を描いているんですけど、そこで、生活欲と道義という2つを問題の中心に置いて、代助は考えています。
 
 
父はそもそも武家の生まれで、忠義や忠誠だけを教育され、それを、武家の終わった明治でも引き継いで生きていると思い込んでいる。しかし代助に言わせれば、そうでなくて、道義は見かけ上だけになっていてもう薄れてしまっていて、生活欲を盛んにして、稼いで肥えているのみだと、そう見ている。
 
 
かつての自分と、今の自分が、大きく変わってしまったことをですね、自分で理解しておらん、と代助は考える。大きく矛盾してしまった自分を理解せずに、違和感だけを抱えて苦しんでいるのは、どうもイカンじゃないかと、プー太郎のくせに代助は、父をてひどく批判しておるわけであります。しかし口には出さない。
 
 


 
 
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智恵子抄(21) 高村光太郎

今日は高村光太郎の『智恵子抄』その21を公開します。縦書き表示で全文読めますよ。
 
 
今回の詩、とても良いんですよ。なんというんでしょうか。過酷な空想や、苦の描写から、平生の自然界の音のところにこう、感情が還元されて行く展開があって、そのアンチクライマックスな技法が、みごとなんです。さいごの薔薇の一文が、すてきでした。ごく小さな音が、静かに響きわたってくるような詩でした。
 
 

 
 
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