科学者と芸術家 寺田寅彦

今日は寺田寅彦の「科学者と芸術家」を公開します。縦書き表示で全文読めますよ。
 
 
このまえ京都の大学のシンポジウム動画を見ていたんです。「これが応用哲学だ!」という講演動画です。5年以上前に公開された動画なんですけど、そこで哲学と科学の関係性のところの講義があって、興味深かったです。
 
 
カール・ポパーという哲学者が、半世紀くらい前に科学のことを論じていて、「科学と擬似科学に境界線をひくには、反証可能性があるかどうか」を見れば良いということを提示した。「これが絶対に正しい、と言いきれるもの」とか「どのように反証しても、言い逃れが出来てしまうものごと」というのは科学以外のものだ、とポパーは言います。「あの森は美しい」というような話しは、いくら反論しても、いつまでも言い返しつづけられるわけです。だからその話しは、とうぜんすぎるんですが科学以外の領域に属しているのだという……。
 
 
ポパーの線引きのことについては、wikipediaに詳しく書いているので、興味があったら読んでみてください。
 
 
wikipediaに反証主義のことが判りやすく書いてあったので、引用してみます。
 
  反証主義とは、知識を選別するための、多数ある手続きのうちのひとつ。
  具体的には、(1)ある理論・仮説が科学的であるか否かの基準として反証可能性を選択した上で、(2)反証可能性を持つ仮説のみが科学的な仮説であり、かつ、(3)厳しい反証テストを耐え抜いた仮説ほど信頼性(強度)が高い、とみなす考え方。
 
 
ところが現代の応用哲学者によれば、このポパーのじつに明解にみえる「科学と擬似科学の線引き」も、じつは反例がいっぱい出てきてしまったので、殆どの哲学者は「科学と擬似科学の線引きは不可能だし意味が無い」と述べてオチがついてしまった。
 
 
そのあとの時代がやばくて、擬似科学を科学に属させないための必要性というのが、現代に生じてしまった。それは教育現場で、科学じゃ無いものを科学として教えようとする勢力がすごい力を持っちゃったからなんです。具体的には、人間の身体は神さまが作った、というような話なんですけど、それを宗教の施設のなかで宗教として教えるのじゃ無くて、科学の一環として学校で教えようとする事態が、現代のアメリカで起きてしまったんです。それで哲学者たちが裁判所にまで呼ばれて、「こりゃ科学じゃ無いですよ。どう考えても」ということをわざわざ明言しなくちゃいけなくなった。
 
 
それでけっきょく、最近の応用哲学者の多くは、科学と『科学じゃ無いのに科学と言いはっているもの』を明確に区別することはほぼほぼ不可能なんだけど、『あからさまに科学じゃ無いもの』を科学だと誤認しないで済むように、ポパーの考えも、あるていど目安として応用は出来る、というファジーなとらえ方になっているそうです。
 
 
あのー、最近思っていることは、なぜ新興科学は大きな公害に直結してゆくのかという謎で、いくつか本を読んでいて判ったことが何個かあるんです。まず科学は、最先端になるほど細分化しつづけて専門分野以外のことが五里霧中になる、というのと、そもそも科学は、明らかにできそうなところしか重大視しないで、永久に答えが出ない問題は哲学などでしか扱われず、科学は絶対に扱えないという特性があるということで、「明日のことなんて判らない」という、誰もが知っている問題を、科学はそもそも扱えない。
 
 
「明日の天気が何%ワカル」というワカルということしか扱えなくて、「明日どんな予想外のことが起きるか、これはほぼ永久に判らんわ」という大問題を扱えないんですよ。論理学や裁判所はこれを扱えるわけです。だから、明日大災害が起きるという証拠は無いが、「もし」起きた場合は巨大な人権侵害となるので原発は止めろ、これからは廃炉事業の時代だ、と論理的に言えるわけです。
 
 
それと新興科学が巨大産業と結びついてしまって、利益優先で危険性が無視されてゆく展開になる、という話しで、これらはオルテガという学者が、半世紀以上前に警告したことと共通しているんです。
 
 
70年前にファシズムが終にしりぞいた後に、シビリアンコントロールが大切で、軍事よりも民主主義のほうが上位にある、という構造が作られて、平和が長く続けられたんですけど、こんどは、新興科学よりも、哲学や倫理学が上位にある、という構造を作らないと、大きな科学公害が新たに起きてしまう、というのが今の日本の状況のようです。
 
 
寺田寅彦は、「科学者と芸術家」という随筆で、公害と直結しない科学のことを、明るく論じています。おもに自然科学を中心にして、芸術家と科学者の共通項を記しています。寺田寅彦は、こう書きます。
 
  …………
  ……また科学者がこのような新しい事実に逢着ほうちゃくした場合に、その事実の実用的価値には全然無頓着むとんちゃくに、その事実の奥底に徹底するまでこれを突き止めようとすると同様に、少なくも純真なる芸術が一つの新しい観察創見に出会うた場合には、その実用的の価値などには顧慮する事なしに、その深刻なる描写表現を試みるであろう。古来多くの科学者がこのために迫害や愚弄ぐろうの焦点となったと同様に、芸術家がそのために悲惨な境界に沈淪ちんりんせぬまでも、世間の反感を買うた例は少なくあるまい。このような科学者と芸術家とが相会うて肝胆相照らすべき機会があったら、二人はおそらく会心の握手をかわすに躊躇ちゅうちょしないであろう。二人の目ざすところは同一な真の半面である。
 
 
芸術家も、危機に直面してゆくもんなんだなあと、漱石や太宰治や、ピカソやドストエフスキーの人生を考えるとたしかにそうかもしれないと思いました。
 
 

 
 
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 幼かった頃の夢想のことを、ゲーテは「黄金の空想よ」と記します。ゲーテの詩には、神話的なものと理知的なものが混在していて、これが魅力のように思います。ゲーテはゲルマン神話と、とくにギリシャ神話の影響が色濃いようです。
 この詩集は生田春月が翻訳をした作品です。ゲーテは政治家としても活躍し、かのナポレオンからも尊敬されていた作家で、その言葉を詩で楽しめるというのは、なんだか嬉しいように思います。

  

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