門(8) 夏目漱石

今日は夏目漱石の『門』その8を公開します。縦書き表示で全文読めますよ。
 
 
小六が家にやって来て、どうにも奇妙な3人家族の暮らしが始まった。お互いに気を使いあっていて、じつにこう気まずい。
 
 
ぼくの人生には気まずい対人関係しか無い、という感じなんですが、小説でこういう気まずさをがっつり書くのは、考えてみれば意外と少ないように思うんです。たいていはこう、ドストエフスキーみたいに闘争の一歩手前とか、破綻の一歩手前とか、現実にはめったに起きないところを、小説は書いちゃう。しかし漱石はそうでなく、平生のえんえん続いてゆく気まずい暮らし、というのを書いている。
 
 
例によって漱石の得意技の△関係なんです。子の無い宗助と、お金が不足して住むところが無くなったかなり年下の小六と、小六と馴染めない御米。この3人の気まずさは、どうにもえげつないぞ、と思いつつ読んでいました。
 
 

 
 
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智恵子抄(38) 高村光太郎

今日は高村光太郎の『智恵子抄』その38を公開します。縦書き表示で全文読めますよ。
 
 
智恵子抄は、そのほとんどが戦中に描かれたものですが、前回の「報告」と前前回の「松庵寺」だけは、戦後に書き加えられたものなんです。順番をどうして時間軸通りにしなかったのか、この詩の並びかたも、詩集「智恵子抄」のひとつの魅力のように思います。これは戦後に読んでよいものだ、と高村光太郎は判断して、これ以降の詩があるのかなあ、と思いました。
 
 
作中に記されている「ヴエズヴイオ」というのはwikiにはこう書いています。

「イタリア・カンパーニア州にある火山。ナポリから東へ約9kmのナポリ湾岸にある」「紀元前217年にも大規模な噴火を起こしている。紀元62年2月5日に大地震があり、付近の町に大損害を与えた」「皇帝ネロは復興に国を挙げて取り組み、純ローマ風の街として再建した」
 
 

 
 

 
 
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映画の語る現実 宮本百合子

今日は宮本百合子の「映画の語る現実」を公開します。縦書き表示で全文読めますよ。
 
 
宮本百合子はパールバックをこの随筆で、紹介しています。宮本百合子によれば、アメリカが映画で、中国をちゃんと描くことが出来たのは、このパールバック原作の映画「大地」がはじめてのことで、この原作は特別なんだ、と言います。
 
 
これほんと、読んでて興味深いんですよ。プロの読みってやっぱすごいなあ……、と圧倒されました。要所要所であらわれる、満面の笑顔というのが、原作とまったくその意味を異にしていて、それは阿蘭を演じる女優ライナーの辿ってきた人生の、明るさによるもんだと言うんです。本文はこうです。
 
 
  あの笑いの瞬間に横溢する感情表現は、阿蘭の全生涯の歴史が別に書かれて来ているのでなければ阿蘭の体と顔とに現れ得ない美である。俳優としてよりむしろライナーの富、華麗、社交性、女としての日常性があすこで一閃するが如き強烈な印象を与えるのである。映画全体として、これは一つの大きい破綻のモメントである。
 
 
ほかにも、大地という映画には「時間的感覚の欠乏」があって、そこには「芸術と現実との歴史的な問題がかくされて」おり、それに思い至らせるほど、この映画は傑作なんだと説いています。
 
 
しかし日本映画に対する作家としての不満は多々あって、ある小学校を追った日本のドキュメンタリー作品に対して、ただキレイに撮っているだけで、まったくこう内実が隠されていると。本文には、こう記されているんです。
 
  ……………児童の生活というものは、映画の画面の奇麗さのために工合のいい光線のある秋や五月の晴天だけに在るものだろうか? 冬の寒いとき、そして最も日本的な梅雨のふりつづくとき、撮影もしにくい光線と湿気との中で、ゴム長靴マント姿の学童たちの生活はどのように営まれているか。
  
  ……………交通事故の防止のために市が子供らに払っている注意、子供ら自身の身につけている訓練。それらの点は何故撮されなかったのであろう。……………そういう、現実的な部分が全くカメラからとりこぼされている。
 
 
これを読んで、この個人ブログ記事のような個々から発信されるものは、かつての映像作家たちの取りこぼしてきたものを、ちゃんとこう、表に出す力があるなあ、と思いました。
 
 

 
 
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門(7) 夏目漱石

今日は夏目漱石の『門』その7を公開します。縦書き表示で全文読めますよ。
 
 
季節はもう冬になっていて、宗助夫婦は静かに暮らしている。すると崖の上の隣家から、ピアノの音や話し声や、笑い声が聞こえてくる。
 
 
宗助はもう、他人がどのように裕福でも、嫉妬心も抱かず、枯淡なのかなんなのか、感覚が霧消してしまっている。ただ、崖の上の家のできごとだけは、なんだか気になる。
 
 
とくになにも起こらない日常の描写が続くんですけど、それがシンプルに、読んでいて楽しいんですよ。こう、モーリス・ラヴェルのボレロでもじーっと聞いているように、文体の美しいのを見ているだけで、充分に、なんというんでしょうか、文学読んでるなあーと思います。
 
 
妻の御米は、真夜中に、じつに奇妙な音を聞く。あまりに気になるので、宗助を起こして、あの物音はなんなのだ、と言う。本文はこうです。
 
 
  「音は一遍したぎりなのかい」
  「だって今したばかりなのよ」
  二人はそれで黙った。ただじっと外の様子を伺っていた。けれども世間はしんと静であった。いつまで耳をそばだてていても、再び物の落ちて来る気色けしきはなかった。
 
 
崖の上から、なにか大きなものが落ちてきた、というのです。しかしあたりは静まりかえっている。御米は、どうも真夜中に眼が冴えてしまうようなのです。朝になって、宗助がその崖を見にゆくと、こうなっていた。
 
 
  …………ちょうど自分の立っている縁鼻えんばなの土が、霜柱をくだいたように荒れていた。宗助は大きな犬でも上から転がり落ちたのじゃなかろうかと思った。しかし犬にしてはいくら大きいにしても、余り勢が烈し過ぎると思った。
 
 
どうも、昨晩の物音は、崖の上の家に、泥棒が入ったらしい………。盗人が落としていった盗品を、宗助は崖の上に届けにゆくのでありました。主人は裕福で、盗まれたことをまるで気にもしていないんですよ。この不可思議な人物描写が好きになりました。
 
 
宗助の家のまわりに、夏になると咲く、秋海棠しゅうかいどうというのは、こんな花です
 
 

 
 
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智恵子抄(37) 高村光太郎

今日は高村光太郎の『智恵子抄』その37を公開します。縦書き表示で全文読めますよ。
 
 
今回は【  報告(智恵子に)  】という作品です。これは戦後に記されたものです。
 
 
これまで、戦時中に、やむをえず抽象的に描かれてきたことの内実が、近代詩とは異なる、構造の明確な文体で記されています。
 
 
智恵子抄の全体は、ここに記されている、智恵子の思想を実現してみようと、描かれていたんだなあーと、思いました。どこかこう謎解き解明編のような詩になっていました。もうこれは、詩じゃ無い、というような文体で記されているのが驚きでした。
 
 

 
 
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微笑 横光利一

今日は横光利一の「微笑」を公開します。縦書き表示で全文読めますよ。
 
 
これすごい作品なんです。戦後のGHQ支配下に、こういうものを書ききったのがすごい、という、戦争が終わってるのに、戦争のみを書いた作品です。あのー、水木しげる大先生も貸本漫画で、戦後に連合艦隊の激戦とかそういうのを書いていたそうです。当時は、そういうのがまだ大人気だったそうなんです。敗戦後しばらくはそういう感じだったそうです。
 
 
自分は敗戦後の数年間で小説家がどう変化したのかに興味があるんですけど、横光利一は、戦争が終わってから、戦争が終わってない、という小説を書いた。内容も支離滅裂な軍国主義者の、えぐいもので、なにかこう、ラブクラフトの暗黒神話とか、井伏鱒二の「黒い雨」に登場する、戦後の市営バスを戦車と勘違いして、ハリボテの爆弾で爆破しようとする、頭のおかしい青年のことを思いだしました。
 
 
この「微笑」は細部がこう興味深くて、自宅に表札をかけてもかけても、いくらクギでしっかり打ちつけても、ぜんぶ盗まれてしまうとか、そういえば物不足だった戦後には、学校のプールにある鉄フタを盗まれ続けたという事実があったそうですし、法律違反の闇市で食糧を買わなければ餓死した時代だそうですし……。作中に、右翼と左翼の争いのことがこう記されています。
 
  
  母の実家が代代の勤皇家であるところへ、父が左翼で獄に入ったため、籍もろとも実家の方が栖方母子二人を奪い返してしまった
 
  勤皇と左翼の争いは、日本の中心問題で、触れれば、忽ち物狂わしい渦巻に巻き襲われる
 
 
敗戦直後には、左翼が牢屋から出て来て自由になって日本共産党が再建したりして、左傾化しかけたようなところがあると思うんですけど、レッドパージのはじまるのが、この小説が出た3年後くらいなので、すごく時代を読んでるなあーと思いました。作中にも記されているのですが、横光利一はなぜか、戦後すぐに、排中律のことを中心的に書いているようなので、ありました。辞書では「排中律」のことを、こう説明しています。
 
 
はいちゅうりつ【排中律】 〔principle of excluded middle〕論理学の基本原理の一。「P∨-P」すなわち P であるか,または P でないかのいずれかであることを主張する論理法則。ある命題は真であるか偽であるかのいずれかであり,中間の可能性が排除されるところからこの名前がある。この論理は標準的な古典論理では成立するが,直観主義論理ではその一般的妥当性が否定される。伝統的論理学では,矛盾律・同一律とともに三大原理の一とされる。排中原理。排中法。(大辞林 三省堂)より

排中原理 (law of excluded middle)思考の法則の一。一般的には「AはBでも非Bでもないものではない」という形式をもち、Bと非Bとの間には中間の第三者はありえない、ということで、矛盾原理を補足するもの。未来事象に関する命題については真でも偽でもない第三の可能性を認めざるをえず、ここから記号論理学では多価論理学の特色として排中原理を認めない場合がある。排中律。不容間位律。(広辞苑 / 株式会社岩波書店)より
 
 
排中律の感覚は、日本の文化に相応しくないし、その対極にあるのはアルカイックスマイルとも言われる、日本の微笑なんだということを、横光利一が描いているように思いました。もし日本が戦中に、アメリカやソ連よりぜんぜん先に、原爆以上に破壊力のある中性子爆弾のような光線兵器を作ってしまっていたら、その作者である日本人はどうなっていたか、ということを小説にしています。現実に於いては、毒ガスの製造が戦中は大々的に行われていて、今でもその遺構が日本の島に残されているわけなんですが……。作中で主人公は、この新兵器について、見ないに越したことは無い、と危険な情報は得ないほうが得策だと、そう考えるんですよ。これはまさにそうだなあ、と思います。横光利一は、高性能すぎる兵器を作ってしまった者は、負ければ裁かれ、勝っても口封じで殺されてしまうだろうと、いう予想を立てます。結末は、史実と共鳴した内容なのですが、やはり驚きをもって読み終えました。
 
 
空襲で偶然にも生き残った少年の姿を描き出したかのような、雪崩を逃れた少年の話が、すごく良かったです。作中のこの文章が印象に残りました。
 
 
 ……
 ふと、どうしてこんなとき人は空を見上げるものだろうか、と梶は思った。それは生理的に実に自然に空を見上げているのだった。円い、何もない、ふかぶかとした空を
 
 

 
 
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門(6) 夏目漱石

今日は夏目漱石の『門』その6を公開します。縦書き表示で全文読めますよ。
 
 
育ての親がいなくなった小六を、宗助は家にひきとり、奇妙な3人家族がうまれようとしている。主人公宗助と、だいぶ年下の弟である小六と、それから宗助の妻の御米。この三人です。
 
 
鏡にうつった御米の顔色がずいぶん悪いのに、宗助は驚いた。しかし御米はなんでもないのだという。御米は、小六にどうも嫌われているような気がして、そこで悩んでいる。そんなことは気にするなと、宗助が言う。そのやりとりがおもしろかったです。原文こうなんです。
 
 
  「またヒステリーが始まったね。好いじゃないか小六なんぞが、どう思ったって。おれさえついてれば」
  「論語にそう書いてあって」
  御米はこんな時に、こういう冗談じょうだんを云う女であった。宗助は
  「うん、書いてある」と答えた。それで二人の会話がしまいになった。
 
 
こんかい論語についてはずいぶん、てきとうに書いている漱石なんですが、雨つづきで靴の中や、家の中が濡れてしょうがない、ということについては、妙にリアルに細部まで書いているんです。ここがなんかこう、現代小説っぽいなあーと思いました。
 
 
あんまり本文とは関係無いんですけど、芸術性がどういうところから生じるのかと考えた時に、ぼくは転向してゆくところに、それが生じるんじゃないかなと思ってるんです。漱石は、もともと英語の専門家だった。漢詩や中国語も大好きだった。文部省から言いつかってイギリスに語学の留学までした。語学の学者みたいなところが強かった。そこから、正岡子規の影響を受けて、けっきょく文学創作に入っていった。その転向してゆく過程で、今回のような、論語は扱わないけれども、雨ふりの中の小さな感覚や、古道具屋との屏風を売るやりとりなどの、無駄話のところが、詳細に記されてゆくという文体になっていったんだと思います。変化してゆくところ、変わろうとするところでこう、優れた芸術性というのが生じる……んだろうなあと思いながら読んでいました。
 
 
この門という小説は、やっぱり謎めいていると思いながら読んでいました。本文のここが気になります。
 
 
  宗助は抱一の屏風を弁護すると共に、道具屋をも弁護するような語気をらした。そうしてただ自分だけが弁護にあたいしないもののように感じた。
 
 
いったい、なにが宗助の空白をかたちづくっているんだろうなあ……、と思いつつ読みました。
 
 

 
 
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