山羊の歌(27) 中原中也

今日は中原中也の「山羊の歌」その26を公開します。縦書き表示で全文読めますよ。
 
 
まだ底冷えのする春の日の今日に、この詩を読むのはぴったりだと思いました。
 
 
 陽気で、坦々として、しかも己を売らないことをと、
 わが魂の…………
 …………
 
 
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若き日の思い出 牧野富太郎

今日は牧野富太郎の「若き日の思い出」を公開します。縦書き表示で全文読めますよ。
 
 
牧野富太郎は植物学者です。これは、ごく短い随筆なんですけど、びっくりするようなことを書いています。19歳でふる里の佐川町(高知県)から、雨の石鎚山の山頂まで登って、帰ってきたという。調べてみると普通に踏破できるような距離や標高じゃ無いですよ。往復200キロ以上歩いて石鎚山のふもとに辿りついて、それから雨の中を山頂まで登ったんだそうです。装備もでたらめで、レインコートが無いどころか傘も持たずに、地図もなく、和服で行ってきたという。どんな体力なんだと思いました。それで、オオナンバンギセルを写生して帰ってきたのだという。ほかにも様々な地域を旅し、九州の最西端五島列島にもヘゴの調査旅行に出かけ、牧野富太郎はこう書きます。原文こうです。
 
 
  家にたてこもっている人ではとてもこの学問はできっこない。日に照らされ、風に吹かれ、雨に濡れそんな苦業を積んで初めていろいろの植物を覚えるのである。
 
 
これを書いたのはいったい何歳の頃なんだろうと思うんですが、さいご明らかになるんです。伊能忠敬とか芭蕉とか、とにかく歩いて歩いて歩きまくる学者が、古い日本の学問芸術を形づくってきたんだなあーと思いました。植物採集の随筆なのに、ゴールドラッシュの記録を読んでいるように迫力があるんです。
 
 
牧野富太郎は、江戸時代真っ只中の文久二年1862年の生まれなのに、ものすごく長生きしている。オチの数行がすごいんです。推理小説でもこういうビックリ感は出せないだろうと思いました。事実は小説よりも奇なり、と言うんですが、この随筆は驚きました。牧野富太郎の本をもっともっと読んでみたいなと思いました。
 
 

 
 
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こころ(2) 夏目漱石

今日は夏目漱石の「こころ」その2を公開します。縦書き表示で全文読めますよ。
 
 
全6回にわたって漱石の「こころ」を読んでいます。先生の妻の、話しぶりが印象に残るんです。それでちょっと調べてみたんですけど、先生の呼び名が奇妙なんです。まず名前が無いんです。どこを探しても、「先生」の名字も名前も判然としない。百科事典のwikipediaにも書いていません。それで妻が夫を何と呼ぶかというと「主人」という呼び方をしない・・・です。主従の関係には無いので、主人という言葉をほとんど使わない、とも読めるかと思います。漱石は、主人という言葉を、「客と主人」というように店主のような存在を名指す時に使っています。
 
 
それで、どう呼んでいるかというと、おもに「あの人」とか、または主語を用いずに夫のことを語ります。そして若き青年は彼のことを「先生」と呼んでいる。べつに学校の先生はしていない男を先生、と呼ぶんです。源氏物語もじつは、名前が固定されていなくて、呼び名が変転し、本名がよく判らないように記されているんですが、漱石も「名前がない」という物語をよく描くんです。明確に名指す行為ってたとえば新聞とか、客観的な事実が報じられるときに名が明確に筆記されると思うんです。


名前がある人と、名指せない存在のちがいってなんなんだろうかと思ってたんですけど、たとえば親密じゃ無い相手でも名前がない相手はけっこう居ると思うんですよ。個人的に嫌いな相手や興味を持てない相手にも名前がとくに無かったりする。でも近い存在とか好きな相手でもなぜか名前が生じないこととか、名がころころ変転する場合もよくあるはずで、客観的にはとらえがたい領域に居る人物が、こう、源氏物語とか漱石が描きだす「名の無い存在」になっているんだと思うんです。
 
 
「それから」では、主人公代助が、名づけにくい暮らしをしている。今回の先生も、じつにあいまいな存在として語られつづけます。先生は、いったいどういう人なのか、その妻と、彼を慕う青年が論じ合う箇所があります。原文こうです。
 
 
「奥さん、私がこの前なぜ先生が世間的にもっと活動なさらないのだろうといって、あなたに聞いた時に、あなたはおっしゃった事がありますね。元はああじゃなかったんだって」
「ええいいました。実際あんなじゃなかったんですもの」
「どんなだったんですか」
「あなたの希望なさるような、また私の希望するような頼もしい人だったんです」
「それがどうして急に変化なすったんですか」
「急にじゃありません、段々ああなって来たのよ」
 
 
妻によれば、先生がなぜ変わってしまったのか「私にはどう考えても、考えようがないんですもの。」と言うんです。次の一文がすこぶる印象に残ったんです。妻が、先生のことを考えてこう言うんです。原文こうです。
 
 
  ……
  しかし人間は親友を一人亡くしただけで、そんなに変化できるものでしょうか。私はそれが知りたくってたまらないんです。だからそこを一つあなたに判断して頂きたいと思うの」
 
 
思うんですが、漱石は、正岡子規が亡くなるまでは、小説家になる行為をとっていなかったですよ。それまでは英語の研究をしていたんです。正岡子規が亡くなったので、その彼がやっていた文芸誌に小説を書きはじめた。正岡子規が一生文学をやるという姿を漱石に見せたので、漱石はそれを追うことにしたとも、思うんです。
 
 
主人公の「私」は、正月になると、父の健康状態をうかがいに故郷へ帰り、暇つぶしに親子で将棋を打ったりします。それから東京に帰って卒業論文を書いたりしている。なるほど、漱石はおそらく学校を卒業する年齢の読者に向けて書いたんだろうなと思いました。
 
 
物語中のちょっとした挿話に、夜に寝ていて気付かぬうちに亡くなっていた男のことが語られます。身内どころか本人も気づかないような、苦しみの薄い自然死のことがほんの少し記されている。主人公はその話しをまるで気にしないんですが、なんだか妙に気になりました。
 
 
漱石は、他の文学とどうちがって、どこが独自かということを論じている評を読んだことがあるんですが、そこでは漱石は何よりも、裏切りについて描いた作家だ、というのがあって記憶に残ったんですが、たしかにこの物語ではそれが中心的に描かれていると思いました。本文では、青年の財産分与問題について、先生はこう述べています。「平生はみんな善人なんです。少なくともみんな普通の人間なんです。それが、いざという間際に、急に悪人に変るんだから恐ろしいのです。だから油断ができないんです」
 
 
「人間がいざという間際に、誰でも悪人になる」と、先生は言うんです。なぜそうなるのか。この問題について、青年が問いつづけていると、先生は、真面目に問うのなら自分の過去の体験をはっきり教えようと、宣言します。それでいちばん長い、先生の最後の手紙が登場するわけなんですが…………。次回につづきます。
 
 
この時代の「国」という言葉が好きだ、と思いました。漱石はふる里のことを、国と書くんです。原文はこうです。
 
 
  私はかばんを買った。無論和製の下等な品に過ぎなかったが、それでも金具やなどがぴかぴかしているので、田舎ものを威嚇おどかすには充分であった。この鞄を買うという事は、私の母の注文であった。卒業したら新しい鞄を買って、そのなかに一切いっさい土産みやげものを入れて帰るようにと、わざわざ手紙の中に書いてあった。私はその文句を読んだ時に笑い出した。私には母の料簡りょうけんわからないというよりも、その言葉が一種の滑稽こっけいとして訴えたのである。
  私は暇乞いとまごいをする時先生夫婦に述べた通り、それから三日目の汽車で東京を立って国へ帰った。
 
 

 
 
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山羊の歌(26) 中原中也

今日は中原中也の「山羊の歌」その26を公開します。縦書き表示で全文読めますよ。
 
 
とても印象に残る詩なんですけど、題名が不思議なんです。「妹よ」というタイトルです。題名から推測すると、手紙のように詩人の実感を書き記した作品なのかもしれない、と思って調べてみましたが、中原中也には妹は居ないようです。やはりこの詩は架空の人物を中心にして描かれているようです。
 
 

 
 
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季節の植物帳 佐左木俊郎

今日は佐左木俊郎の「季節の植物帳」を公開します。縦書き表示で全文読めますよ。
 
 
これからしばらくの間、植物の随筆を読んでゆこうと思います。今回は、福寿草の話しです。wikipediaと同時に読むとなんだか興味深かったです。
 
 
佐左木は植物に対する情緒的な印象を描きだしているんですが、wikipediaはその客観的な性質を記していて、なんだか好対照だなと思いました。それでwikipediaに佐々木俊郎のことがどう書かれているのか読んでみたんですけど、wikiにしてはずいぶん感性に重きを置いた筆記で、これはおもしろい、レアな百科事典の1ページだと思いました。佐々木俊郎の文章は、情熱的なんです。本文には、こう記されています。
 
 
  私達のセンチメンタリストは、廃墟はいきょに自然がつちか可憐かれんな野草に、涙含なみだぐましい思いを寄せることがある。
 
 
中盤で、春になると咲く福寿草のことを書いているんですけど、佐左木はなんだか、異国の王子の感性とか表情を描きだすかのように、花の表情を書き記すんです。どうやって植物を見て楽しめば良いのかよく判らないと昔、思っていたんですけど、随筆と一緒に植物を見ると、とたんにその生命の活動の様相が露わになってくるんだなと思いました。
 
 
植物と言葉は、親和性がものすごく高いですよ。そういえば、「言葉」って「葉」って書きますし。日本人にとって言葉は「葉」からイメージされたもんで、もっとも古い文学と言えば「万葉集」ですし、万葉集は万の言葉だけでなく植物が多様に描かれていますし、日本文学の中心には、じつはボタニカル文学があったのだ! とか思いながら、この植物の随筆を読んでいました。
 
 

 
 
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こころ(1) 夏目漱石

今日は夏目漱石の「こころ」その1を公開します。縦書き表示で全文読めますよ。
 
 
今日から全6回にわたって漱石の「こころ」を読んでみようと思います。序盤の物語展開が、初期作品の「吾輩は猫である」の仕組みにちょっと似ているんです。まずひたすらに、猫のように、「先生」をただただ見ているという青年が現れます。ノラネコが相手を追いかけるみたいに、浜辺に居る先生を追ってゆく。この語り手は、なんというかかなり透明な存在で、自分の存在を誇示しない。3章の中間までなにも言わない。
 
 
4章から先生とのつきあいが始まる。小説がはじまって10分後のところからすでに、物語全体の展開が示されています。こういう文章です。
 
 
  私はなぜ先生に対してだけこんな心持が起るのかわからなかった。それが先生の亡くなった今日こんにちになって、始めて解って来た。先生は始めから私を嫌っていたのではなかったのである。先生が私に示した時々の素気そっけない挨拶あいさつや冷淡に見える動作は、私を遠ざけようとする不快の表現ではなかったのである。いたましい先生は、自分に近づこうとする人間に、近づくほどの価値のないものだからせという警告を与えたのである。
 
 
推理小説や一般映画ならことの真相を隠して物語を進めるはずなんですが、漱石はよく、物語の大筋を序盤にはっきりと明示するんです。これが読んでいて、なぜか興味深くなる文体というか、漱石は全体像を見せてから、徐々に内部の動向を開示してゆく。おおよそこうであった、という全体を見せてから、その真相を細部まで詳らかにしてゆく、という文体で、構成が美しいと思います。さらに漱石の全作品も、物語同士が相似しつつ進化するように構成されていると思います。いちど小さくオチを書ききってから、さらにそれを大きく展開させて物語を書くというような、なにかこう雪の結晶の構図みたいに、文章と章と起承転結と作品同士が連なっているように思います。はい。
 
 
僕の年齢では、漱石の「こころ」が、まだどうもむつかしすぎて判らない……のですが、今回序盤を読んでいて思ったのは、漱石がこれまでの作風からさらに前に進んで、よりいっそう深い物語の奥底へと向かっていると思いました。本文に、こういう文章があります。
 
 
  …………
  不安にうごかされるたびに、もっと前へ進みたくなった。もっと前へ進めば、私の予期するあるものが、いつか眼の前に満足に現われて来るだろうと思った。
 
 
漱石の前期作品から中期へ、そして後期作品を読みはじめるようになって読者である自分が感じていることを、この「こころ」の語り手が書いている、と思いました。「こころ」は、とても読みやすい文章で構成されているんですけど、内容が極端にむつかしいように思うんです。先生の示そうとしている「価値のないもの」というのは、いったいなんなのか……。全部読み終えてみても、未だに判らないです。この物語には、小説のモデルがぜったいに居るわけが無いというか、この世界に居るはずの無い人間としか思えない「K」が登場しますし、「ない」存在というのが大写しになってると思うんです。謎めいた小説なんだと、思いつつ読んでいます。
 
 
ところで、この小説は、じつは「心」という連作短編集のなかの一つの短い物語にするつもりで、書きはじめたものなのだそうです。ところが書いているとものすごい長編になっていったので、けっきょくは長編小説として完成させたんだそうです。
 
 
 
漱石がなんでまた「こころ」でこんなふうに暗いことを深く掘り下げて描いたのか、他の漱石作品と比べてどうも判らない、というふうに思っている自分にとって、「私」の立ち位置と感覚は、なんだか理解できると思いました。漱石ははじめ、短編としてこれを書こうとした。書いていて、どうも捨て置けない、文学上重大なものを発見したから、漱石はこれを代表的な長編小説にまで育てあげた。序盤に、書き手の漱石自身をものすごく惹きつけた箇所がまちがいなくあるはずなんです。それが、いったいなんなのかがまた、謎だと思いました。
 
 
なんだか不思議な描写があって、「先生」ははじめ知り合いの外国人と海で泳いでいたという描写がある。奥さんは日本人なのに自分のことを混血だと言ったりする。両親の出生地が鳥取と東京で遠いことを、むかしは混血だと冗談みたいに言ったそうなんです。これ現代のドラマにするとしたら、奥さんはロシア人とのハーフだったりするかもしれないなと思いました。
 
 
あとやっぱり漱石は、正岡子規が結婚できなかったことについて考え続けていて、これを書いたとしか思えないなと、感じる描写がありました。漱石はこの物語で、当時はまだ成立しがたかった恋愛結婚に関して様々に記しています。自分の認識では、恋は一方通行で、愛は双方向性のものだという区別を付けているんですが、漱石はどうもそういう概念で書き分けているようでは無いですよ。「先生」と「さい」は、出会ったばかりの頃、かつてともに惹かれあっていた。それがまさに恋だったわけで、だがその関係は罪悪だったと、「先生」は述べるんです。
 
 
この描写が奇妙な表記で、誤植じゃ無いかと思って原文を調べたんですが、やはりこういう記述でなんとも乙でした。会話文のところが、丸括弧( )カッコ書きになっている。( )って、注釈というか、通常なら言葉にされないけど、じつはこうだ、という記述のはずなんですが、会話の中でこの ( ) が挿入されている。先生の妻が「私」に述べるシーンで、こういう原文です。
 
 
  「そりゃ私から見れば分っています。(先生はそう思っていないかも知れませんが)。先生は私を離れれば不幸になるだけです。あるいは生きていられないかも知れませんよ。そういうと、己惚おのぼれになるようですが、私は今先生を人間としてできるだけ幸福にしているんだと信じていますわ。どんな人があっても私ほど先生を幸福にできるものはないとまで思い込んでいますわ。それだからこうして落ち付いていられるんです」
 
 
妻の立ち位置から見た「こころ」というのが当然存在するんだと、今ごろ気づきました。先生が、年下の「私」に対して述べた、この言葉が印象に残りました。
 
 
  私は未来の侮辱を受けないために、今の尊敬をしりぞけたいと思うのです。私は今より一層さびしい未来の私を我慢する代りに、淋しい今の私を我慢したいのです。自由と独立とおのれとにちた現代に生れた我々は、その犠牲としてみんなこの淋しみを味わわなくてはならないでしょう。
 
 

 
 
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山羊の歌(25) 中原中也

今日は中原中也の「山羊の歌」その25を公開します。縦書き表示で全文読めますよ。
 
 
これまでとは打って変わって、洗練された都会的な詩です。オチのこの「私」の態度がすこぶる良いですよ。
 
 
むつかしい言葉を調べてみました。
 
時宜じぎ
 
ペエヴというのはおそらくPaveのことで、舗道のことだと思います。
 
 

 
 
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