山羊の歌(32) 中原中也

今日は中原中也の「山羊の歌」その32を公開します。縦書き表示で全文読めますよ。
 
 
「そなたの胸は海のやう / おほらかにこそうちあぐる。」ってどうも美しい詩の言葉だなあと思って、それでなんで「そなたは海のやう」じゃないんだろう、と思いました。「そなたは海の」……ではどうもまったくしっくりこない。推敲の逆側に、詩をノイズのトンカチで叩いて一部を壊すと、変な文章になる。なんでこれは、ここを叩いて除けちゃうとダメなんだろうかと、アホなトンカチをイメージしつつしばらく考えていました。
 
 
たぶん詩のリズムが心地良くて、長すぎる言葉と短すぎる言葉では相性が悪かったり、それから抽象的な感性を表現するにあたって、肉体的な具体物があるとそこに詩の迫力が備わったり、いろいろな原因があるんだろうなと思いました。「いやはて」という言葉は、今日はじめて知りました。ワールドエンド。なんだか印象深い古語です。
 
 
むつかしい言葉を調べてみました。

うちあぐ(うちあぐる)
 
いやはて
  
竝び(=並び ※たんなる旧字です)
 
しどけない

なれ(※ なんじという意味です)
 
 

 
 
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カナメゾツネ 牧野富太郎

今日は牧野富太郎の「カナメゾツネ」を公開します。縦書き表示で全文読めますよ。
 
 
カナメゾツネというのはアミガサタケのことです。
 
 
wikipediaによれば、アミガサタケは調理して食えばいちおう食えるが、基本的に毒素があるので食わないほうが良いキノコのようです。むかしは、食えるか食えないか微妙なところの食材というのがいろいろあったようです。と言ってもですね、現代でも、ハーブティーの葉にじつはかなり危険な天然の毒がはいった植物が混入していたりしたことが新聞記事になっていたりするわけで、なかなか植物や食材というのは一筋縄ではいかないむつかしい存在のようです。
 
 
そういえば、最近のぼくの主食は、米とか小麦とか、豆腐とかモヤシとかエリンギとか、ほとんどは工業化された安定的な食材ばかりで、天然の食材はそんなには食べないなと思いました。モヤシだってエリンギだって、外殻は工場で作られているわけですけど、その内部は水や植物細胞やといった天然自然のモノを食べているのには変わりがないわけですが。関係無いんですけど、沖縄とかでよく食べられている豚肉って、長寿に有効らしくて、体に良いみたいです。
 
 

 
 
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彼岸過迄(1)序文 夏目漱石

今日は夏目漱石の「彼岸過迄(1)序文」を公開します。縦書き表示で全文読めますよ。
 
 
今日から、「彼岸過迄ひがんすぎまで」という漱石の代表作を読んでゆこうと思います。今回は、その序文です。
 
 
三四郎それから というのが漱石の前期三部作なんですが、この彼岸過迄というのは後期三部作の作品で、なんだか読むのが楽しみです。漱石は、「修善寺の大患」以降、内容の重い文学作品を描くようになったわけで、ぼくはどうも前期の作品「それから」あたりがいちばん好きなんですけど……、後期の作品の中でかなり代表的な作品がこの「彼岸過迄」なので、これはすごい小説なんじゃなかろうかと思いながら、今読みはじめているところです。
 
 
漱石は、大病をしたあとに二ヶ月間ゆっくり休んだのだと記しています。それでようやっと本格的に、この彼岸過迄を書きはじめることにした、ということを読者に対して、率直に記しています。体調や環境が整って、やっとちゃんとした小説を書けるようになってきた。本文にこう書いています。
 
 
  いよいよ事始める緒口いとぐちを開くように事がきまった時は、長い間おさえられたものが伸びる時のたのしみよりは、背中に背負しょわされた義務を片づける時機が来たという意味でまず何よりもうれしかった。
 
 
漱石は、後期に於いても、書くことが喜びであったのだと判って、なんだかとても嬉しくなりました。ぼくは漱石の小説を読むのがおもしろくてしょうがないところなんですが、後期作品はどうも重々しくてむつかしい。漱石は今回「久しぶりだからなるべく面白いものを書かなければすまないという気がいくらかある。」と書いています。これは楽しんで読めるんじゃないかなと思っているところです。また、漱石はこの序文に、ちょっとした創作論を書いているんです。本文こうです。
 
 
  ……ただ自分らしいものが書きたいだけである。手腕が足りなくて自分以下のものができたり、衒気げんきがあって自分以上をよそおうようなものができたりして、読者にすまない結果をもたらすのを恐れるだけである。
 
 
漱石は、素朴に自分らしい作品を書いて、読者に見せたいんだという。漱石は自分の読者はこういう人だろうと、考えている。本文こうです。
 
 
  ……自分の作物さくぶつを読んでくれる人は何人あるか知らないが、その何人かの大部分はおそらく文壇の裏通りも露路ろじのぞいた経験はあるまい。全くただの人間として大自然の空気を真率しんそつに呼吸しつつ穏当に生息しているだけだろうと思う。自分はこれらの教育あるかつ尋常なる士人の前にわが作物をおおやけにし得る自分を幸福と信じている。
 
 

 
 
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山羊の歌(31) 中原中也

今日は中原中也の「山羊の歌」その31を公開します。縦書き表示で全文読めますよ。
 
 
今回の「心象」という詩を読んで、この風景はずいぶん西洋的で、ファンタジー文学にある世界観を描いているような印象なんです。wikipediaの幻想文学のページを読みつつ、いったいこの天国のような風景というのはいつ日本に輸入されたのか、ちょっと調べていました。どこかから来た世界観だとは思うんですけど、どこから来たのかよく判りません。中原中也は宮沢賢治の作品は読み込んでいたわけで、そこにはファンタジーに共通した風景がたしかにあります。
 
 
この時代の詩人は、どこの文学から、天国のような風景を思い起こしたんだろうか、とおもいます。中国の古くからある『遊仙窟』とか『西遊記』とかから幻想文学が日本に入ったのか、「城」とか「天使」が現れる小説って、どの時期にどういうふうに日本に入ってきたのか、いくつか調べてみたんですけど、今ひとつ解明できませんでした。
 
 
中原中也は、ジッドランボーの詩集を翻訳していて、この頃の西洋文学に詳しかった。
 
 
その中に、ファンタジー文学の「ベオウルフ」「ニーベルンゲンの歌」のような、なにかの幻想文学を知ったのだろうかと思いました。どれを読んだのかは、ぼくには解らなかったです。あるいは聖書から世界観を想起したのかもしれません。
 
 
もしかすると中原中也はこの詩で、天草四郎や隠れキリシタンの世界観を描いたのかもしれない、と思いました。消えていった古い時代というのが、いったいどの場でどの時代なのか……。ギリシャ、ポルトガル、隠れキリシタンの時代、明治時代、大正時代、どの時代を想起するかで、詩のイメージがガラッと変わるんではないかと思いました。なんだか気になる詩でした。
 
 
  亡びたる過去のすべてに
  涙湧く。
  …………
  ……
 
 

 
 
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ワルナスビ 牧野富太郎

今日は牧野富太郎の「ワルナスビ」を公開します。縦書き表示で全文読めますよ。
 
 
植物にも良いのと悪いのがあって……人間から見てどう考えても役に立たない植物に「ワル」と名づけたんだと思うんですけど、調べてみるとたしかに、すこぶる攻撃的な植物なんです。
 
 
まず黄色いミニトマトみたいなこのワルナスビの果実に、毒がある。茎に棘がある。それから、茎を5つくらいに引きちぎると、引きちぎられたところからドンドコ増えるんだそうです。すごい。しかも見た目も悪く、いくら引き抜いて駆除しても、この悪の根が土中に残ってしまって、このワルナスが甦っちゃうそうなんです。なんだかモンスターみたいな植物です。いっぺん育ててみたい気がしないではないです。悪の栄えたためしなし、という慣用句も、このワルナスビには通用しないようです。

 
 

 
 
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こころ(6) 夏目漱石

今日は夏目漱石の「こころ」その6を公開します。縦書き表示で全文読めますよ。
 
 
この第6回で、漱石の「こころ」は完結です。若き日の先生「私」と、暗い友人Kと、お嬢さん。この3人で同じ家に暮らしはじめる。善意の破綻とでも言うんでしょうか。良かれと思ってやっていったことが破滅へと至ってゆくシーンが描きだされています。
 
 
自分としては、ロンドン時代の漱石がカーライル博物館を訪れたときに記載したゲストブックにおける名前が K だったという記録から、神経症に陥った異邦の漱石がKのモデルなんではないか、と思いつつ読みました。
 
 
昔読んだときに気付かなかったのは、「私」がなぜ友人Kを破滅させてしまったのか、その元凶は善意にあった、という箇所で、この時代の大きい流れに共通した展開のように思えました。はじめは良かれと思ってやっていたことが、重大な局面を迎えると真逆の行為に及ぶようになる、という展開が、なんというのか……。本文には、Kを破滅させてしまったその始まりの箇所を、こう記しています。
 
 
  私は彼を人間らしくする第一の手段として、まず異性のそばに彼をすわらせる方法を講じたのです。そうしてそこから出る空気に彼をさらした上、び付きかかった彼の血液を新しくしようと試みたのです。
 
 
漱石ってもしかして、親友の正岡子規に、こういう試みをしたことがあったんでないか、とか無関係なことも連想しつつ物語を読みすすめました。記録に残っている事実としては、子規と漱石はよく2人で一緒に寄席を見にいって、それが漱石の文学観に繋がっているということなんですが。
 
 
だとすれば「お嬢さん」というのは、じつは文学の化身なんではなかろうか。はじめ文学と深い繋がりにあったのは正岡子規で、子規が俳句で大活躍し文芸誌「ホトトギス」を創刊しているころには、漱石はまだ小説を発表したことがなかった。ただ中国文学や西洋文学に詳しいだけだった。
 
 
それがいつのまにか、立場が入れかわるように、漱石こそが近代文学の中心に居るようになったという、こういう事実がえーと、この物語に反映されているんでは無かろうかと、デタラメに空想していました。あるいは樋口一葉をイメージして漱石は「お嬢さん」を書いたのかもしれないとか。
 
 
すくなくとも、物語を読んでいるときに、これが遺書だとはちっとも思えない、色彩豊かな人間関係の描写が続くんです。この序盤の展開はすこぶる朗らかなんです。2人の男が破滅した、という物語を読んでいるとはとても思えない。可憐なお嬢さんをめぐる△関係の中でこう、「私」の内部に嫉妬が生じはじめるシーンがあるんですけど、ここが漱石の初期作品の快活な魅力と同じように、みごとな描写でした。
 
 
このままでは、良くないことになりそうだと言うことで、正直にお嬢さんへの思いをKに打ち明けて誤解の無いようにしておこうと、「私」は考えて、Kを旅に誘う。
 
 
漱石は、禅宗や浄土教に深い興味を抱いていたのですが、今回の小説ではなぜか日蓮を中心に描いています。Kは日蓮にものすごく傾倒している。
 
 
日蓮に興味を持てない「私」に対して、Kは「精神的な向上心が無いのは」イカンぞと、不快の意を示す。これがブーメランになってKを苦しめてしまうんです。他人への否定が自己否定に直結してしまう展開なんです。バカって言った奴がバカなんですーというのの、原典ですねコレ。
 
 
この物語の過程で「人間らしい」という言葉が用いられるのですが、どうにも印象深かったです。詳しくは本文を読んでみてください。
 
 
  「その時私はしきりに人間らしいという言葉を使いました。Kはこの人間らしいという言葉のうちに、私が自分の弱点のすべてを隠しているというのです。なるほど後から考えれば、Kのいう通りでした。しかし人間らしくない意味をKに納得させるためにその言葉を使い出した私には、出立点しゅったつてんがすでに反抗的でしたから、それを反省するような余裕はありません。私はなおの事自説を主張しました。するとKが彼のどこをつらまえて人間らしくないというのかと私に聞くのです。私は彼に告げました。――君は人間らしいのだ。あるいは人間らし過ぎるかも知れないのだ。けれども口の先だけでは人間らしくないような事をいうのだ。また人間らしくないように振舞おうとするのだ。
 
 
Kというのは、まだ作家になろうとしないで茫漠としたこころでロンドンの下宿に籠もっていた頃の、選ばなかった未来、選択されなかった未来なんではなかろうかと思いました。シミュラークルとしてのロンドンの漱石が、すなわちKなんではないかと思いました。ロンドンの漱石は、自分の未来をどうするか、どうも決められなかった。ゼロ地点の漱石なんです。そうして完全に孤独だった。漱石ほど友人関係の豊かだった作家は居ないと思うんですが、ロンドンの漱石はそうでは無かった。本文には、こう書いています。
 
 
  ……するとKはすぐ友達なぞは一人もないと答えたので、奥さんは驚いてしまいました。なるほどKに友達というほどの友達は一人もなかったのです。往来で会った時挨拶あいさつをするくらいのものは多少ありましたが……
 
 
漱石がロンドンに居た頃に子規と交わした手紙のことを、正直に綴った、漱石の随筆はこれです。漱石の「こころ」と同時に読むと、正岡子規の文学活動をつぐように小説を描き続けた漱石の文学観が伝わってくると思いました。
 
 
漱石は『吾輩は猫である』をはじめとした自分の作品を「地下に」いる正岡子規に「捧げる。」と明記している。漱石は「遠くから余の事を心配するといけないから、亡友に安心をさせる為め」ひょうひょうとした小説を書いた。「子規は今どこにどうして居るか知らない。」「子規がいきて居たら『猫』を読んで何と云うか知らぬ」漱石はこういうことを思いながら、小説を書きつづけたので、ありました。
 
 
Kと「私」とお嬢さんの恋愛は、さまざまな行き違いが起きて、いよいよ弁明のしようのない事態に発展する。Kから見れば、無二の親友のとんでもない裏切りの、略奪婚にしか見えない状況が現出してしまう。だが、「私」からすればはじめからお嬢さんと結婚をしたいという認識があったわけで、Kへの報告が大幅に遅れただけなのであります……。「私」は親友Kを裏切ったのだという明記もあります。本文こうです。
 
 
  Kが理想と現実の間に彷徨ほうこうしてふらふらしているのを発見した私は、ただ一打ひとうちで彼を倒す事ができるだろうという点にばかり眼を着けました。そうしてすぐ彼のきょに付け込んだのです。
 
  私は復讐以上に残酷な意味をもっていたという事を自白します。私はその一言いちごんでKの前に横たわる恋の行手ゆくてふさごうとしたのです。
 
 
「私」はけっきょく、Kよりも先に、お嬢さんと結婚したい旨を、彼女の母に伝える。Kを完璧に裏切ったのだという事実に思い至ったときの描写を、漱石はこう書きます。本文こうです。

 
  もしKと私がたった二人曠野こうやの真中にでも立っていたならば、私はきっと良心の命令に従って、その場で彼に謝罪したろうと思います。しかし奥には人がいます。私の自然はすぐそこで食い留められてしまったのです。そうして悲しい事に永久に復活しなかったのです。
 
 
この荒野バージョン、めっちゃ気になる、読んでみたい! と思いました。いきなり裏切った者同士の2人が、荒野に2人っきりで放り出されていたら、いったいなにがどう展開したのか。たぶんトルストイの「復活」終章みたいにダイナミックな物語になると思うんです。「こころ」ではそうではなくて、Kの人生が閉じてしまう。本文こうです。
 
 
  その時私の受けた第一の感じは、Kから突然恋の自白を聞かされた時のそれとほぼ同じでした。私の眼は彼の室の中を一目ひとめ見るやいなや、あたかも硝子ガラスで作った義眼のように、動く能力を失いました。私は棒立ぼうだちにすくみました。それが疾風しっぷうのごとく私を通過したあとで、私はまたああ失策しまったと思いました。もう取り返しが付かないという黒い光が、私の未来を貫いて、一瞬間に私の前に横たわる全生涯を物凄ものすごく照らしました。そうして私はがたがたふるえ出したのです。
 
 
  Kに詫まる事のできない私は、こうして奥さんとお嬢さんにびなければいられなくなったのだと思って下さい。つまり私の自然が平生へいぜいの私を出し抜いてふらふらと懺悔ざんげの口を開かしたのです。
 
  お嬢さんは泣いていました。奥さんも眼を赤くしていました。事件が起ってからそれまで泣く事を忘れていた私は、その時ようやく悲しい気分に誘われる事ができたのです。私の胸はその悲しさのために、どのくらいくつろいだか知れません。苦痛と恐怖でぐいと握り締められた私の心に、一滴いってきうるおいを与えてくれたものは、その時の悲しさでした。
 
 
漱石の「門」13章でも記されていたのですが、漱石は「影」という言葉をとりわけ美しく使うんです。漱石の、影という描写の箇所だけを追っても、それだけで詩として成立しているというか、この言葉の扱いが印象深いんです。
 
 
  卒業して半年もたないうちに、私はとうとうお嬢さんと結婚しました。外側から見れば、万事が予期通りに運んだのですから、目出度めでたいといわなければなりません。奥さんもお嬢さんもいかにも幸福らしく見えました。私も幸福だったのです。けれども私の幸福には黒い影がいていました。私はこの幸福が最後に私を悲しい運命に連れて行く導火線ではなかろうかと思いました。
 
 
漱石は、正岡子規と同じように、「修善寺の大患」以降は、死期の訪れを覚悟しつつ、創作に没頭したんだなと思える文章がありました。終盤での妻への気遣いの描写は、そのような事情によって記されたのではないかと、思いました。
 
 

 
 
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山羊の歌(30) 中原中也

今日は中原中也の「山羊の歌」その30を公開します。縦書き表示で全文読めますよ。
 
 
血を吐くやうな という言葉が、繰り返し描写されます。
これが真夏の過酷な自然界と共鳴して、いわく言いがたい詩の魅力を作りだしています。
 
 
中原中也が翻訳したランボーのあの熱帯の詩の数々が、中原中也の内部で燃焼しているのだ、と思いました。
 
 

 
 
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