山羊の歌(42) 中原中也

今日は中原中也の「山羊の歌」その42を公開します。縦書き表示で全文読めますよ。
 
 
今回も、ボードレールの『悪の華』の詩を引用しています。『敵』という詩です。ネット上にも現代語訳で読めるサイトが3つほどありますので、ちょっと読んでみてください。
  
 
 
山羊の歌って、じつは山羊が出てこない。ヤギもヒツジも出てこないよな、と思っていたら、今回、ヒツジが出てきました。山羊じゃなくて今回は「羊の歌」です。
 
 
タイトルと異なっていて、かなり重い問題が詩に記されているんです。ただ、息苦しい詩では無い。
 
 
中也の詩の言葉、
 
 私を信頼しきつて、安心しきつて
 かの女の心は蜜柑みかんの色に
 
 
というのが印象に残りました。『私』の顔があお向けになって小さくなってしまえば良いということが詩に記されている。論理性は無いんだけれども、意味を超越して共感する言葉に思えました。この詩の語り手はこう願っているんです。
 
 
 この小さなあごが、小さい上にも小さくならんことを!
 
 
昔読んだ、ヤギと魔法の絵本はじつは、この詩を読んだことによって生まれたのではなかろうかと、空想しました。
 
 

 
 
こちらのリンクから全文読めます。(縦書きブラウザの使い方はこちら
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(約1頁 / ロード時間約30秒)
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思い出す儘に 木暮理太郎

今日は木暮理太郎の「思い出す儘に」を公開します。縦書き表示で全文読めますよ。
 
 
ここ10日間くらい、図書館で借りてきた、現代哲学書を読んでいて、そこには哲学的な行き詰まりについて論じられているんですけど、ぼくはこの本を読んでいるわけなんですが、なんだか自分がここ5年間で大間違いしていたことの、その全容がなんとなく見えた気がしたんです。その哲学書では、序盤に、ものごとを誤認したあとの、さらなる哲学的な落とし穴のことがまず書いてあるんです。


なにか自分の考え方の矛盾にハッキリ気づいてしまって一元論的な世界観から出てゆかざるを得なくなったあとに、実体二元論とはまたちょっと違うんですが「知覚と実在の二元論」へと激しく誘惑されてしまったら、落とし穴に落ちて戻ってこれなくなるだけだ、そういうのはイカン、とその哲学書を読んでいて思ったんです。


そういう哲学に良くある落とし穴から、どうやって抜けだせば良いか、ということを書いた哲学書だったんですけど、中盤に「地図」の話しが登場する。地図には、自分のまなざしと、誰でも無いまなざしとが、問題なく共存をしていられる。「絶対的な真理のように見えてしまう落とし穴」に落ちなくて済むようになるために、地図と自分がどういうように関係していて機能しているかを、まずは見てゆけば良いだろう、という本で、まだぜんぜん読み終えてないので具体的にはまったく紹介できないんですけど、今これに夢中になっているところなんです。


とくに興味深かったのは、哲学的な誤謬から脱出するためには、複眼的なまなざし(視覚や、聴覚や、触覚や、味覚などで多角的に思考してみる)とか、無視点的なもの(地図など)とかから、ヒントを掴んでみよう、というところだったです。


この哲学書を読んでいて思ったのは、
 
(1) 乱数に支配された、デタラメに並べているだけのコンテンツの群れ
   (ゴミ箱内部のしっちゃかめっちゃか)
と、
(2) みんなが使える地図のように、数多のまなざしが共存できるコンテンツ
   (美味しい店の網羅リストやwikipediaみたいなもの)
は、
情報が沢山盛り込んであるので、いっけん似ているように思うんですけど、じったいはまったく違うなあ、と思ったんです。自分はどうも、こう地図制作のようにカッチリと学問ができないわけで、ちょっと気を抜くと、ファクトチェックの機能しないランダムなコンテンツしか作れない気がするんです。
 
 
それで、じゃあ哲学とは関係無いけど、じっさいの本物の地図を使っている人が、100年前とかに居ないかなと思って探したら、これを発見しました。


これは、登山家が地図のことを記している随筆なんです。普通の街の地図だったら、みんなもうほとんど間違いが無くなっていて、地図が使えなくって困ると言うことはあんまり無い。けれども危機的な地形の地図はやっぱり、読み間違いとか、書き間違いとかがあって、油断が出来ない。最新科学や喫緊の政治問題が計画的にゆかない、というのと似ているなと思いました。
 
 
このまえ、ある大学の専門家が「大学の専門家ほど信用できないものは無い」という冗談を言っていたんですが、つまりその専門家が、地図化できないような危機的な領域を扱っているということなんだなと思うんです。
 
 
木暮理太郎は著名な登山家なんです。詳しくはwikiを読んでみてください。地図にさえ細部が書き記されない道なき登山を書き記した、随筆です。登山のルートをなんとなく調べてみたら、約600キロを越える山岳登山でした。グーグル先生は「152時間の6日半で歩き終えられますよ」と書いていますが、ぜったい無理、と思いました。眠って休む時間を1日12時間とってもこの倍の13日ですけど、これも間違いで、登山の専門家でも丸30日かかってました。ぼくだったら300日かけても踏破できないです。
 
 

 
 
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彼岸過迄(11)須永の話(後編)夏目漱石

今日は夏目漱石の「彼岸過迄ひがんすぎまで(11)須永の話(後編)」を公開します。縦書き表示で全文読めますよ。
 
 
  僕が大学の三年から四年に移る夏休みの出来事であった。
 
  母はふところから千代子の手紙を出して見せた。それには千代子と百代子の連名で、母と僕にいっしょに来るようにと、彼らの女親の命令を伝えるごとく書いてあった。
 
 
と、いうように須永の過去の物語が語られてゆきます。親戚のよく知っている者どうしで連泊の旅行をする。そこで高木という家族を知る。明治時代なのに、高木の兄はアメリカに行っているそうで、裕福で行動的な家庭らしい。須永は、知らない人に会うのが苦手だから、みんなを残して旅の途中で帰るとか言いはじめた。この態度に、いとこの千代子は「変人!」と言って怒ってしまった。本文こうです。
 
 
  彼女は僕をつらまえて変人だと云った。母を一人残してすぐ帰る法はないと云った。帰ると云っても帰さないと云った。
 
 
須永は、いとこの千代子のことを「小さな暴君タイラント」とひそかに呼んで、タイフーンみたいな女だと思って、年下なのに尊敬している。それでやむをえず、彼女たちについてゆくことになった。「要するに僕は千代子の捕虜になったのである。」と本文には記されています。
 
 
高木は性格も容姿も好青年だった。ひがみっぽくて変な性格をしている僕(須永)の性分にあわない。漱石は、家族や親戚の明るくむつましいところを描くんです。
 
 
親戚みんなで船釣りに行く。高木はとにかく明るくて礼儀正しくて、好青年すぎるので、「僕」はどうしても彼から逃げたい。漱石は、家族や親戚から独立してゆく青年を、さまざまに描きだしていったと思うんですが、今回の高木は、その良き親類の象徴みたいなところがあるんじゃないかと思いました。
 
 
須永の性格がなかなかひねくれてて、良いんですよ。世に出たがらない男とか、欲しがらない男とか、こういう人物像を読んでゆくのが楽しいんだと思いました。須永の恋愛観がなんともすごいんです。本文こうです。
 
 
  僕には自分になびかない女を無理にく喜こびよりは、相手の恋を自由の野に放ってやった時の男らしい気分で、わが失恋の瘡痕きずあとさみしく見つめている方が、どのくらい良心に対して満足が多いか分らないのである。
 
 
漱石は《嫉妬心しっとしんだけあって競争心をたない僕にも相応の己惚うぬぼれは陰気な暗い胸のどこかで時々ちらちら陽炎かげろったのである。》と書くんです。漱石は、みごとになにかを言い当てているような気がするんです。これはなんだか、現代的な人物像だなと思いました。「僕」は勝とうという意志がまったく無い。千代子と結ばれようというように考えない。じゃあどういうように生きるのかというと、漱石はこう書きます。《僕は始終詩を求めてもがいているのである。》
 
 
作中、こんな場面があるんです。
 
 
  「……僕が何か千代ちゃんに対してすまない事でもしたのなら遠慮なく話して貰おう」
「じゃ卑怯の意味を話して上げます」と云って千代子は泣き出した。
 
 
こういう場面もあります。
 
 
  「…………なぜ愛してもいず、細君にもしようと思っていないあたしに対して……」
彼女はここへ来て急に口籠くちごもった。不敏な僕はその後へ何が出て来るのか、まださとれなかった。「御前に対して」となかば彼女をうながすように問をかけた。彼女は突然物をき破った風に、「なぜ嫉妬しっとなさるんです」と云い切って、前よりははげしく泣き出した。
 
 
読んでいてやっぱりこう、須永はほとんど許嫁みたいに深い仲であった千代子に、結婚を申し込めばいいじゃないか! ぐずぐずしすぎたのだ! 言い訳がひどい、たしかに千代子の言うとおり「卑怯」なところがあるなあーと、思いました。どうも振られるのがすごく怖いようです……。
 

千代子に良い未来をもたらしそうな好青年の高木に対して、僕(須永)は嫉妬していて卑屈になっている。それに対しての千代子の批判がこうです。
 
 
  ……高木さんは紳士だからあなたをれる雅量がいくらでもあるのに、あなたは高木さんを容れる事がけっしてできない。卑怯だからです」
 
 
この投げっぱなしジャーマンのような、須永の物語の終わり方に、痺れました。あと2回で完結です。
 
 

 
 
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山羊の歌(41) 中原中也

今日は中原中也の「山羊の歌」その41を公開します。縦書き表示で全文読めますよ。
 
 
今回中原中也は、ボードレールの詩を用いています。ボードレールの詩集『悪の華』に『夕べのハーモニー』という詩があります。ネットにもこの詩の現代語訳が3つほどあったので、リンク先をちょっと読んでみてください。
  
 
 
これに対して、中也が書いた詩が『時こそ今は……』という詩です。中也は、ボードレールの詩を『時こそ今は花は香炉に打薫うちくんじ』と格調高く翻訳します。ところで、作中に出てくる泰子というのはどうも、女優の長谷川泰子の可能性が高いです。長谷川泰子は、京都で中原中也と約一年間、同棲生活をしていたのでありました。
 
 
これはまさに、詩と手紙が融合した作品だなと思いました。美しい恋文なんです……。こんな良いものを、読ませてもらって良いのだろうかと、思いました。
 
 

 
 
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猫 宮沢賢治

今日は宮沢賢治の「猫」を公開します。縦書き表示で全文読めますよ。
 
 
宮沢賢治で 猫 と言えば、「猫の事務所」という童話が有名で、「どんぐりとやまねこ」などのように動物や植物や鉱物の擬人化された作品が多いと思うんです。
 
 
ユーモラスなものと、清いものと、それから怖ろしい物語とが、さまざまにあると思うんです。もう一つ顕著な特徴は、意味から解放されたような不可思議な作品がある、というのが宮沢賢治の特別な魅力に思います。
 
 
今回のは、じつに不思議な掌編で、これが詩なのか物語なのか日記なのかさっぱり判らないんです。どうしてこうなったんだろう、どうやってこれが残されたんだろう、と思いながら読みました。じつに奇妙な読後感でした。
 
 
ネズミのひとり言のような記述にも思えるし、小鳥のひとり言を書き記したものかもしれないし、人間の「友達」の話し声を書き記したものかもしれないです。
 
 
調べてみると、アンデルセンの作品に「みにくいアヒルの子」という童話があって、そこに幼い鳥をいじめる猫が登場するんです。賢治はそのことを思って、この掌編を書いている。賢治はこの掌編に『アンデルゼンの猫を知ってゐますか』と書いています。
 
 
ほんの1ページほどの作品で『 猫は立ちあがりからだをうんと延ばしかすかにかすかにミウと鳴きするりと暗の中へ流れて行った。 』という記述で話しが途切れて終了してしまっている。
 
 
これは作品と言うよりも、メモというか走り書きというか、断片なのかもしれない、と思いながら読みました。賢治の作品を本に纏めた方なら、どこから発掘した文章か、判るはずなんですけど。
 
 
ただ、アンデルセンの「みにくいアヒルの子」のことを考えたことがあって、それでのちに「猫の事務所」を作ったのかもしれないぞとか、賢治の謎を追う上で貴重な断片のように思います。どうしてあの物語で、いかめしい金色の獅子がわっと出てきたのか、その謎を追うための、鍵みたいな掌編だと思いました。
 
 

 
 
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彼岸過迄(10)須永の話(前編)夏目漱石

今日は夏目漱石の「彼岸過迄ひがんすぎまで(10)須永の話(前編)」を公開します。縦書き表示で全文読めますよ。
 
 
「千代子さんは須永君の所へ行くのだとばかり思っていたが、そうじゃないのかね」
「そうも行かないでしょう」
「なぜ」
 

というように物語は始まります。この小説は、子規に読ませたい物語なのだ、と思いながら読んだんですが、これは単なるぼくの妄想というわけでもなく、漱石は随筆にそういうことをちょっと書いてますよ。亡友の子規なら、自分の書いた物語をどう楽しんでくれるだろうか、ということを漱石は書いてます。
 
 
漱石はいろんな作品で、お前はなんで結婚しなかったんだ、という内容をさまざまに描きだしています。生涯独身だった子規に宛てて書かれた手紙としても、読むことが出来るのではないかと思いました。漱石は小説内で「僕はまださいを貰った経験がないから」とよく書いている。これについてのさまざまなバリエーションがあるんです。
 
 
漱石は、この物語で須永といとこの千代子の、恋愛に結びついてゆかない関係性を描きだします。須永と千代子の描写が良いんですよ。彼岸過迄という、漱石の重々しい後期作品であっても、淡い恋愛の描写はみごとですよ。これが漱石だ、と思いました。風邪のために一時的に声の出なくなった千代子の代わりに、須永が声を出して相手に伝える。二人で電話を使って遊ぶんです。
 
 
『彼岸過迄』を全文は読まないけれども、漱石の恋愛描写を読んでみたいかたは、『彼岸過迄 須永の話 九章から十章』だけを読んでみてください。ほんの10ページで、10分くらいで読めますよ。抜き出すとその魅力が減少してしまうかもしれないんですが、すてきな物語でした。
  
 
 
 

 
 
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山羊の歌(40) 中原中也

今日は中原中也の「山羊の歌」その40を公開します。縦書き表示で全文読めますよ。
 
 
現代詩人の、初期の詩でとても印象に残った作品は、じつは中原中也の「生ひ立ちの歌」のオマージュであったのか、とはじめて気がつきました。事情がまったく判らなくても、楽しめるのが詩なんだなと思いました。
 
 
これは子どもでも大人でも、素人でも玄人でも、みんなが使える詩の原形のような気がしました。
 
 

 
 
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