絶対矛盾的自己同一 西田幾多郎

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今日は西田幾多郎の「絶対矛盾的自己同一」を公開します。縦書き表示で全文読めますよ。
 
 
西田幾多郎は、おもに戦前に活躍した難解な哲学者で、ぼくは難しくてまだよく読めていないんですが、この作品は、第二次大戦が起きる少し前に発表されたもので、プラトンの定義した「瞬間」という時の論考から思索を始め……もう、しょっぱなからむつかしいんですけど、こう書いています。 
 
 
  現実の世界とは物と物との相働く世界でなければならない。現実の形は物と物との相互関係と考えられる、相働くことによって出来た結果と考えられる。しかし物が働くということは、物が自己自身を否定することでなければならない、物というものがなくなって行くことでなければならない。
 
  現実の世界は何処までも多の一でなければならない、個物と個物との相互限定の世界でなければならない。故に私は現実の世界は絶対矛盾的自己同一というのである。
 
 
ちょっと何を書いているのか、自分には今ひとつ理解できないんですが……。ここから先は本文以外、西田哲学の正解とは無関係な、たんなる自分の考え方なんですが、モノがはっきり機能する時、たとえばウズラの卵が、ウズラの卵として存在するには、卵の殻が壊れてヒナが誕生するか、私たちが食べて美味しいと思うか、そういう移行を経ないかぎり、それそのものの存在の意味が生じていない、ということなんでしょうか。
 
 
判った範囲で興味深かった箇所は、こういう文章でした。
 
 
  かかる世界は作られたものから作るものへと動き行く世界でなければならない。
 
 
自分の意志で生まれてきたわけではなく、環境をあてがわれたり、助力を得て作られてきた人物が、やがて成長して、自分の意思で組織を選んだり、環境を作ったりする、作るものへと変化してゆくということを想起しました。
 
 
西田幾多郎はモノや存在はみな「有即無ということができる」と書くんです。またこうも書いています。
 
  
  現在の矛盾的自己同一として過去と未来とが対立し、時というものが成立するのである。しかしてそれが矛盾的自己同一なるが故に、時は過去から未来へ、作られたものから作るものへと、無限に動いて行くのである。
 
 
過去は作られたもんだけど、未来は作ることができると。作るというのは、モノとモノの関係性を変化させてある機能を持たせること、つまり大工が家を建てる時に生じているものだと、述べています。
 
 
この箇所が面白かったですよ。 
 
 
  我々の自己というものも、歴史的社会的世界においてのポイエシスによって知られるのであろう。歴史的社会的世界というのは、作られたものから作るものへという世界でなければならない。社会的ということなくして、作られたものから作るものへということはない、ポイエシスということはない。
 
 
ポイエシスというのは、こういう意味なんです。
 
 
それから、こうも述べています。
 
 
  動物にはいまだポイエシスということはない。作られたものが作るものから離れない、作られたものが作るものを作るということがない
 
 
子孫繁栄のことは、本論によれば「作る」の概念には入っていないんですね。植物が大海のはての、岩場のみの無人島にまで種子を飛ばして緑の大地にすることは、なんだか「作る」の概念のような気がするんですけど、本論では、人為や作為によって変化させることのみを論じているようです。
 
 
寺田寅彦や夏目漱石なら、猫や植物は(人間の思索の限界を超える遺伝子的な段階で)「神秘的に思索を繰り広げている」と表現するのでしょうが、西田哲学や論理学者たちは「猫は世界の改編を夢みない」と規定する。
 
 
猫や植物はけっして哲学しない。しかし、猫や植物こそが、深遠な思索を繰り広げていると仮定する論者もたしかにいるわけで、この対立はなんだか興味深いなと思いました。
 
 
自分としては、西田の本論の、注意点はここだろうと思ったんです。
 
  世界を多から、あるいは一から考えるならば、作られたものから作るものへということはあり得ない。
 
では、どう考えれば、作られたものから作るものへと動的に生きられるのか? それを西田はこう書きます。 
 
  多が自己否定的に一、一が自己否定的に多として、多と一との絶対矛盾的自己同一の世界においては、主体が自己否定的に環境を形成することは、逆に環境が新なる主体を形成することである。与えられたものは作られたものであり、自己否定的に作るものを作るものである。作られたものは過ぎ去ったものであり、無に入ったものである。しかし時が過去に入ることそのことが、未来を生むことであり、新なる主体が出て来ることである。かかる意味において、作られたものから作るものへというのである。
 
  それで多と一との絶対矛盾的自己同一として、自己矛盾によって自己自身から動き行く世界は、いつも現在において自己矛盾的である、現在が矛盾の場所である。
 
 
1939年の社会状況で、日本にこういう哲学世界があったのか、当時誰がどのように読んだのだろうかと思いました。西田は1939年に生きる人々に対して、考えることの、ひとつの方法を書きしるしている。西田幾多郎は、歴史的な存在のことをこう述べているんですよ。
 
 
  歴史的社会的世界においては何処までも過去と未来とが対立する、作られたものと作るものとが対立する、而してまた作るものを作るのである。
 
  歴史的現在においては、何処までも過去と未来とが矛盾的に対立し、かかる矛盾的対立から矛盾的自己同一的に新な世界が生れる。
 
 
たとえば、ヒトラーや日本帝国主義思想やカルト思想と、西田哲学には、どのような違いがあるのかが気になる箇所もありました。本文こうです。
 
 
  現在において無限の過去と未来とが矛盾的に対立すればするほど、大なる創造があるのである。
 
 
西田の本論には、民族と、生死と、人間のデモーニッシュな活動について記されている箇所もありました。当時の新聞や言説を纏めた本を読んでみると、壮大なことを言いつつ迫害をおしすすめるものがかなりの量あり、なんというか5年で悉く全滅するようなウイルス的言説が、西洋や日本に蔓延している時代でもある。たとえば「ニュルンベルク法」を調べてみると、敬虔な哲学者までもがこの毒牙にかかって苦悶している、怖ろしい時代なんです。そういう時代に、死滅する宿業のウイルス的な言説には冒されずに、西洋哲学を取り入れつつ新たな哲学を日本に根づかせようとした西田幾多郎は、じつに熱いなと思いました。1939年に西田哲学を読んでどう、ヘーゲル哲学を読んでどうと、けんけんがくがく議論しつつ生きていた学生が、いっぱい居たんだろうなあー、とつくづく思いました。
 
 
西田は「否定」という言葉を、本論で104回、「相互否定」という言葉を20回も用いているんです。否定について思考するところに価値をつくろうとしている。
 
 
無理やり同化せずに、矛盾や否定が存在するところに哲学を構築しようとしている。西田は「否定は現実の自己矛盾からでなければならない。」とも書きます。
 
 
本論では、哲学者として宗教を読み解いた箇所もあって、それは自己矛盾の底にあって深く省みる時に、「自己自身を翻して」神に「帰依」し「自己自身を否定することによって、真の自己を見出す」のであって「自己そのものの自己矛盾を反省」し「自己自身によって自己否定はできない」ので、キリスト教や仏教という伝統的な宗教に入るのだ、と西田は記しています。本論に於ける国家論と宗教論は取って付けたような印象が強く、参考にならない気がします。
 
 
西田幾多郎の言う「絶対矛盾的自己同一」が、何を論じているのか、どうも捉えきれなかったので、もういちど、この単語が使われている箇所を抜粋して、その意味をなんとなく掴んでみようと思って、以下に列記してみました。西田幾多郎はこう述べます。

  ・現実の世界は何処までも多の一でなければならない、個物と個物との相互限定の世界でなければならない。故に私は現実の世界は絶対矛盾的自己同一というのである。
  ・絶対矛盾的自己同一として、作られたものから作るものへという世界は、またポイエシスの世界でなければならない。
  ・多と一との絶対矛盾的自己同一の世界においては、主体が自己否定的に環境を形成することは、逆に環境が新なる主体を形成することである。
  ・多と一との絶対矛盾的自己同一として、自己矛盾によって自己自身から動き行く世界は、いつも現在において自己矛盾的である、現在が矛盾の場所である。
  ・生物的世界はなお絶対矛盾的自己同一の世界ではない。
 
 
えーと、ぼくは「昇華」という概念が好きなんですが、しかし「昇華」という概念のように「社会的に認められない欲求や無意識的な性的エネルギーが、芸術的活動・宗教的活動など社会的に価値あるものに置換され」(広辞苑)たり「物事がさらに高次の状態へ一段と高められ」(広辞苑)たりするのが、どうも西田幾多郎の哲学では無い。
 
 
西田哲学は、昇華するのでは無くって、相互に否定しあっている状態のまま、一体であることを認識することが、すでに重大だと、考える。
 
 
wikipediaを読むと、西田哲学の基本は「仏教思想、西洋哲学をより根本的な地点から融合させようとした」ということになっている。さらに「絶対矛盾的自己同一」の簡略な解説もなされていますので、興味のある方は読んでみてください
 
 
「絶対矛盾的自己同一」という言葉自体の意味が、どうしてもとらえきれない。西田に言わせれば、「判らない」という概念を含まない「判っている」はありえないのかもしれない……と思いました。西田はこう記します。
 
 
  人間の社会的構造には、それが如何に原始的なものであっても、個人というものが入っていなければならない。何処までも集団的ではあるが、個人が非集団的にも働くということが含まれていなければならない。
 
 

 

 
 
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 幼かった頃の夢想のことを、ゲーテは「黄金の空想よ」と記します。ゲーテの詩には、神話的なものと理知的なものが混在していて、これが魅力のように思います。ゲーテはゲルマン神話と、とくにギリシャ神話の影響が色濃いようです。
 この詩集は生田春月が翻訳をした作品です。ゲーテは政治家としても活躍し、かのナポレオンからも尊敬されていた作家で、その言葉を詩で楽しめるというのは、なんだか嬉しいように思います。

  

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