吾輩は猫である(3) 夏目漱石

今日は夏目漱石の「吾輩は猫である」その(3)を公開します。縦書き表示で全文読めますよ。
 
 
漱石の名作群と比べてみると「吾輩は猫である」はこう、ストーリーが洗練されていないというか、思ったことをそのまんま書いたのではなかろうか、という箇所が多数あります。
 
 
そのなかでも、主人と妻とで、ちいさい諍いや衝突がある、というところが印象に残ります。主人は胃弱で、薬が効かないと言っては怒っている。この作品で論じられているカーライルは、wikipediaにも載っている有名な評論家です。

 
主人は、漬け物が胃を悪くすると考えていて、ジャムが妙に好きで、なんだか昔話の「沙石集・和尚と小僧」における「飴は毒」というホラ話を思い出しました。
 
 
じつに取り留めの無い話がえんえん続きます。なにかやたらと変な大学に入学して、おかしな教授の授業をさまざまに聞いているような感覚になりました。作中にこういう記述があるのですが、この作品の特徴を示しているように思いました。

 「女はとかく多弁でいかん、人間もこの猫くらい沈黙を守るといいがな」と主人は吾輩の頭を撫でて…………
 
 
ところがこの小説では男がどうでもいいことを喋ってしゃべりたおしている。さらに「吾輩」はいろんな猫とお話しをする。猫が飯の話しをしている。人も飯の話をしている。猫も人もそんなに変わらないんだけど、人の場合はだましたりからかったりしていて、大人げないのでありました。
 
 
漱石の処女作は、漱石のあまたの名作とどう違うのか、考えていたんですけど、処女作には正岡子規の随筆集にすごく似ているところがある、気がするんです。自分としては、それで間違いないはずだ、と思っているんですがどうなんでしょうか。草枕からあとの代表作はもっと、物語性が強くて、推理小説のようなストーリー展開があって、読者を引っぱってゆくところがあるんですが、この「吾輩は猫である」には、ストーリーというのはほとんどありません。その代わりに、作者の自分語りや、思いつきのような展開が前面に出てきています。
 
 
これが何処かで見たことのある難しさに繋がっていて、そういえば正岡子規の名作「病牀六尺」が、こういう書き方をしていたじゃあないかと、漱石は親友の正岡子規の書き方を真似つつ、現代の話し言葉を使いながら書いてゆくことで、小説の世界に入っていったんだろう、と考えました。
 
 
他にも、この記述を成長させていって、きっと「夢十夜」が書かれたんだろうとか、文学の萌芽があまたに散見されるのが、この小説の魅力なのだろうなあと思いました。
 
 

 
 
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