こころ 夏目漱石

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今日は夏目漱石の『こころ』を公開します。縦書き表示で全文読めますよ。この小説は夏目漱石の代表作とされる小説です。以下のURLから全文お読みいただけます。一度読んだことのある方も、ぜひこの機会にふたたび夏目漱石の『こころ』を読んでみてください。若いころに読んだ『こころ』とはまた異なる魅力を発見できるかと思います。

https://akarinohon.com/center/kokoro.html 




僕はこの小説をやはり、漱石自身である『先生』と、読者である『私』と、そして漱石の若き日の親友であった『K』と、文学そのものをあらわす『静』とが織り成す追憶の物語のように読んでゆきました。

静(お嬢さん)というのがヒロインとしてこの物語に登場します。追憶では、このお嬢さんが素晴らしい美少女として登場しています。誰にでもそういう若き日の恋の相手はいるわけで、そのお嬢さんに恋をして、結婚がしたいと。「先生」は親友「K」と、このお嬢さんを奪い合うことになってしまうわけです。そういう話の大筋があります。今なら普通かも知れませんが、明治時代は自由恋愛というのがまだ主流では無かったですから、恋というのは今よりもっと静かで淫靡で革命的なものだったのかも知れません。この話の「先生」というのはなんというか男前なんです。かっこいい。それで「先生」と言って慕ってくる青年に少しずつものを教えてゆく。自分の経験を元に、こういう失敗はしないように、という気持ちで、「先生」は「私」に心を開いてゆく。




現代でも、「先生」と言えるような尊敬されている人が、子にものを教えてゆくように、なにかを伝えることがありますよね。私たちは尊敬できる人からそういう話しを聞いておきたいと思う。戦争の実際を経験していない人にその苦しみを伝える人がいる。連合赤軍の時代を知らない若い人に、あの時は、こういうように失敗が積み重ねられていったんだ、と大人が告げている。阪神淡路大震災を知らない時代の人へ、あの時はこうだったんだ、こういうことが大切だったんだ、と告げたいと思う。そういうように、漱石は若い人へ向けて、ある挫折についてを教えようとする。

それで「先生」はこう言うわけです。

「君は恋をした事がありますか」 
 私はないと答えた。
 「恋をしたくはありませんか」 
  私は答えなかった。
 「したくない事はないでしょう」
「ええ」
「君は今あの男と女を見て、冷評しましたね。あの冷評のうちには君が恋を求めながら相手を得られないという不快の声が交っていましょう」
「そんな風に聞こえましたか」
「聞こえました。恋の満足を味わっている人はもっと暖かい声を出すものです。
 しかし……しかし君、恋は罪悪ですよ。解っていますか」
  私は急に驚かされた。





「こころ」の登場人物である「K」のモデルは、一般に石川 啄木か幸徳 秋水であろうと言われています。ぼくはきっと正岡子規が「K」で、正岡子規と「文学」という恋人「静」を奪い合ったんだろうなあと思い込んでいました。今でもそう思ってるんですが。はじめは正岡子規が文学に愛された。正岡子規は「ほととぎす」を創刊して文学と親密になり、俳人として世に名を馳せてゆく。その時夏目漱石はただ英文学を研究しているだけだった。正岡子規が長い闘病生活の末亡くなり、漱石はそれで俺は小説を書こう、と思い立つ。漱石は正岡子規に導かれるように「ほととぎす」に「吾輩は猫である」という小説を発表し、文学者になっていった。漱石はいつのまにか、ずっと背中を追っていたはずの親友を追い越して歴史的文学という世界に進んでいた。ただ、ちゃんと調べてゆくと、Kの実家は寺で、石川 啄木も実家が寺なんだし、どっちかといえばやはり啄木がモデルのようです。





漱石は自身の手記で『坊っちゃん』の登場人物のモデルは誰なんだい、と聞かれて「モデルは居ません。想像で作りあげた人なんです」と説明しています。小説は架空の物語ですし、特に漱石は私小説やノンフィクションの方法のようには人物を登場させないし、架空の要素が多いほど物語としてより優れた設計であると考えていた作家なので、まったくモデルが居ないまま箱庭を作っていったというのが正解のようですが、それでもやっぱり作者の実体験を完全に離れて書けないんじゃないかと思います。明治時代に英国文学を研究していた男が紫 式部のような物語を書く、というような飛躍はとうていできないわけで、どこかが実体験に基づいて居るんじゃないかと思えるわけです。物語を読むと同時に、作者の静かな告白も一緒に読んでゆきたい、と思う僕にとって夏目漱石は現実の多様な逸話にあふれていて、汲んでも汲んでも尽きることのない一つの水脈のように大きな存在です。




漱石は自身の手記で、小説には「触れる」小説と「触れない」小説というのがある、と述べています。触れる小説というのは、言ってみれば泣ける小説です。【お涙頂戴=優れた物語】では無い、ってことは誰でも実感したことがあると思います。ほんとに気持ち悪くなっちゃう恐怖小説なんて誰も読みたくないですし、触れる小説というのはやっぱり限界があるんだと。
それで英国文学を研究し尽くして、独自の日本文学を創りあげた漱石は、平易に淡々と客観的な視座に立って書いてゆく、触れない小説の魅力を説いています。






https://akarinohon.com/center/kokoro.html (ページ数 約700枚)









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