高浜虚子著『鶏頭』序 夏目漱石

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今日は夏目漱石が高浜虚子の小説の序文を書いた、余裕派に関する短い評論文を公開します。縦書き表示で全文読めますよ。僕は最近、夏目漱石の小説を幾つか読んでいったんですが、なんだか夏目漱石の小説よりも夏目漱石本人そのもののほうに興味がうつってしまい、漱石ってどうしてあんなに懸命に小説を書いたのか? とか、漱石はなんのために小説を書いたのか? とか、漱石はどういうものを書きたかったのか、とか漱石の教育論ってなんなんだろうとか、漱石は肉親や正岡子規の死をどのように感じていたんだろうか、とか漱石本人のことのほうが知りたくなってしまいました。





漱石は処女小説の『吾輩は猫である』を書き始める直前には、ロンドン留学で差別と引きこもり生活を体験して散々な目にあって意気消沈しており、無二の親友であった正岡子規とも死に別れて、夫婦仲も悪く、子供も憎らしい、という状態だったようです。それで、正岡子規の弟子だった高浜虚子に「山会」に「なにかちょっと文章を書いてくれませんか?」と言われたときに、漱石は猛然と小説を書き始めたのでした。
「山会」というのは、正岡子規が立ち上げた朗読会で、ここで何かを発表するということは、そのまま雑誌「ほととぎす」に掲載されるということだったようです。漱石は、正岡子規との日々が懐かしくて小説を書き始めたんじゃないかと思えてなりません。






漱石が生まれて初めて小説を書き終えたとき、なにをしたかご存知ですか?
子規の弟子だった高浜虚子に「吾輩は猫である」という原稿を手渡して「ちょっと今ここで読んでみてくれ」と言って自分の小説の朗読をやらせて、自分の書いた物語を聞きながら大笑いしていたそうです。よほど創作で気分が晴れたんでしょう。





僕は小説を読んでいると気が散ってしまうんですが、自伝や評論やノンフィクションを読んでいると集中して読めるという、少し奇妙な傾向があります。おそらく、芸よりも人の肉声を聞きたいからなんだと思います。芸を見るのならば美術や映画のほうが実感しやすいですし、癒しを求めるのなら音楽のほうがすんなりとよく入ってくる。ものを考えるのなら評論やルポルタージュや哲学書のほうがより深く判る。じゃあ小説ってなんのためにあるのか、というのがどうもよく判らないんです。ぼくは小説に対する拒否感というか苦手意識というのは昔からけっこう強くあるので、あんまり小説に入り込めない。あまり小説に親しめない人にとって、小説の専門家である夏目漱石の小説論は、文学への理解力を深める良い評論になっていると思います。短い評論なのでぜひ読んでみてください。






漱石は、対立する二つのもののうちの片方を否定するのではなく、二つのもののそれぞれの価値がどのように存在し、両者の特性を考察しながら、それらをどう超克しうるのかを説いています。





夏目漱石って、顔も男前ですけど、考え方がかっこいいんですよね。人の心に触れる小説というものを認めながら、触れない小説(不断着の小説)というものの必要性を説く。夏目漱石は人情を否定していないのにクールで冷静な態度を前面に押し出しているんです。人情や生活を粉みじんに破壊する新自由主義者とかとは全く違う魅力があります。漱石は英国文化を交えながら新しい日本の思想を練り上げていった人ですから、中身が男前。







https://akarinohon.com/basic/takahamakyosi_jo_natumesouseki.html (ページ数 約25枚)


 







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