痴人の愛(3〜4) 谷崎潤一郎

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今日は谷崎潤一郎の「痴人の愛」その(3〜4) を公開します。縦書き表示で全文読めますよ。
 
 
今回の「痴人の愛」はすんなりと読んでゆける文体なんです。言文一致運動から、皆が読める小説の文体が作られはじめて、誰でもほぼ確実に読める小説の基本形ができあがったのは、谷崎からだったような気がするんです。でも内容はドストエフスキー並にえげつないところもある。小学生でも読めるけれども、小学生には刺激が強すぎるだろう、という内容なんです。日常の延長線上にある危機が描かれているので、ダンテ地獄篇よりも危ない内容かもしんない。
 
 
パッと読めちゃう本を書いた谷崎自身は「陰翳礼賛」で、じつはこのように語っています。
 
 
  私は、われわれが既に失いつゝある陰翳の世界を、せめて文学の領域へでも呼び返してみたい。文学という殿堂ののきを深くし、壁を暗くし、見え過ぎるものを闇に押し込め、無用の室内装飾を剥ぎ取ってみたい。それも軒並みとは云わない、一軒ぐらいそう云う家があってもよかろう。
 
 
谷崎本人は、けっしてあらゆる子どもに、自分の文学作品を広く読んでもらいたいわけでは無かった。でも大正時代にこんなにもさらっと読めてしまえる現代語で描かれた小説というのは、他に存在していないくらい、とても読みやすい平明な文体なんです。谷崎が読みにくいとしたら、それが長編作品で、読み終えるのに時間がかかるということだけで、文章自体にむつかしさは無いんです。
 
 
谷崎が『痴人の愛』を描いたのは1924年(大正13年)で、「陰翳礼賛」を発表したのが1933年(昭和8年)。それ以降もしかすると、「陰翳礼賛」で追及された文学観に近づいた、奥深い作品が記されていったのかもしれないです。こんご後期作品も読んでみたいなと思います。
 
 
それで今回の第3章冒頭で、洋風建築のおとぎの家に住みはじめた「私」とナオミは、友だちづきあいするみたいに(というか恋人同士で同棲するみたいに)二人暮らしをスタートした。なんだか現代のテレビドラマで出てきそうな設定ですよ。大正時代っつーたら、丑松が草鞋をはいて旅をしていて、竹の皮に巻いたおむすびをほおばって、別れぎわに飲んだ緑茶のあたたかさに涙するような、そんな時代のほんの数年後のころですよ。谷崎潤一郎は、世界を一挙に現代化してしまった。
 
 
今ゲームとかで、自分の家をデコレーションして遊ぶというものが多いですけど、谷崎はそういう趣味的なことを小説の中に書いている。15歳では昔も今も、自由に出来ないことが多いわけですけど、谷崎はそういうフリーダムな世界があるよということを描いています。
 
 
屋根裏部屋にしつらえた寝具で、2人ちょっと離れて眠るなんていうような、なんとも10代の頃の夢想をかき立てるような設定が次から次に出てくるんです。屋根裏部屋ですよ屋根裏部屋! 現代ならロフトにベッドをしつらえる感じでしょうか。そういえばドストエフスキーの「罪と罰」も主人公は屋根裏部屋に住んでいた。
 
 
朝食は気が向いたほうが交互に作ろうかとか、美味しいものを食べたいなら近くの洋食屋に行こうかとか……。大正時代なのに、じつにオシャレな文学があったもんだと思いました。こんな生き方をしてみたい。 
 
 
谷崎潤一郎の最大の特徴は、起承転結の転の、このやたらな転がりぐあいが強烈で、そこが魅力だと思うんですけど、物語のはじまりの、「起」のガッチリとした設定の妙に舌を巻きました。谷崎はまるで魔法使いみたいに、美しい幻を見せるもんだと、思いました。はい。とうじは映画よりも、小説こそが、みごとな幻を見せるヴァーチャル空間の、最前線の現場そのものだったんだなと感じました。
 
 
どうでも良いことなんですが、大森海岸というのがみすぼらしい海水浴場として大正時代から有名だったようですが、これいま現代ではどうなっているかちょっと調べてみたら衝撃でした。「大森海岸駅」という駅があるんですけど、肝心の海岸はもはやどこにもない……。海岸と銘打っているのに、海岸じゃ無い。自由奔放なナオミじゃなくても、この海岸はイヤだと思いました。
 
 
自由な世界にも、上には上が居るもので、バカンス中に、もっとよりハイカラな人々に巡りあってしまって、2人はちょっとかなり、とまどってしまった。どうも自分たちの手にしているフリーダムと言うのは、比べてみるととても安っぽいもののようである…………。
 
 
作中でナオミが歌っている「サンタ・ルチア」というのは、どうもこの歌のことのようです。それからハイネ詩集に登場した「ローレライ」という19世紀にかなり有名になった歌は、これです。この歌を、ナオミは海辺できげんよく歌った。
 
 
谷崎潤一郎は、漱石をもっとも尊敬しているわけなんですけど、こんかい漱石「草枕」のこの箇所に言及していました。漱石の原文はこうです。
 
 
  「ヴェニスは沈みつつ、沈みつつ、ただ空に引く一抹いちまつの淡き線となる。線は切れる。切れて点となる。蛋白石とんぼだまの空のなかにまるき柱が、ここ、かしこと立つ。ついには最も高くそびえたる鐘楼しゅろうが沈む。沈んだと女が云う。ヴェニスを去る女の心は空行く風のごとく自由である。されど隠れたるヴェニスは、再び帰らねばならぬ女の心に覊絏きせつの苦しみを与う。男と女は暗き湾のかたに眼を注ぐ。星は次第に増す。柔らかにゆらぐ海はあわそそがず。男は女の手をる。鳴りやまぬゆづるを握った心地ここちである。……」
 
こう続きます。
 
  「男が云うんですよ。何でも女がヴェニスへ帰りたくないのでしょう。それで男が慰めることばなんです。――真夜中の甲板かんぱんに帆綱を枕にしてよこたわりたる、男の記憶には、かの瞬時、熱き一滴の血に似たる瞬時、女の手をしかりたる瞬時が大濤おおなみのごとくに揺れる。男は黒き夜を見上げながら、いられたる結婚のふちより、是非に女を救い出さんと思い定めた。かく思い定めて男は眼をずる。――」
 
 
谷崎は上述の箇所を引用しつつ、こう書き記します。谷崎の原文は以下のとおりです。
 
 
  …………その時思い出したのはかつて読んだことのある夏目漱石の「草枕」です。そうです、たしかあの中に、「ヴェニスは沈みつつ、ヴェニスは沈みつつ」と云うところがあったと思いますが、ナオミと二人で船に揺られつつ、沖の方から夕靄ゆうもやとばりとおして陸の灯影を眺めると、不思議にあの文句が胸に浮んで来て、何だかこう、このまま彼女と果てしも知らぬ遠い世界へ押し流されて行きたいような、涙ぐましい、うッとりと酔った心地になるのでした。
 
 
海で遊びつかれた「私」とナオミとの、風呂場での奇妙な関係性がとても印象に残りました。
 
 

 
 
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 この詩集は生田春月が翻訳をした作品です。ゲーテは政治家としても活躍し、かのナポレオンからも尊敬されていた作家で、その言葉を詩で楽しめるというのは、なんだか嬉しいように思います。

  

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