今日は夏目漱石の「吾輩は猫である」その(8)を公開します。縦書き表示で全文読めますよ。
今回は、「坊っちゃん」で中心的に描かれていた、子どもっぽい「からかい」について、垣根のことを取り上げながら猫が思考している、という話でした。漱石の処女作は、のちの名作の布石になっているものがじつに多いなと、思いました。「吾輩は猫である」で垣根と「からかい」のことを書いてから、その翌年くらいに「坊っちゃん」で、「からかい」のことを発展させて書いている。漱石の初期の活動を、時間軸でまとめると、こうなっているんです。

今回、垣根がクローズアップされているわけなんですけど、これをですね、「垣」という単語でテキストの全文検索をかけると、なかなかおもしろいリストが描きだされました。こういうリストです。
この第八章の840段落あたりで、やたらと「垣」のことが描かれているわけですけど、じつは「吾輩は猫である」第一章の29段落めで、つまり小説のしょっぱなから、猫が垣根を全く無視して、ズカズカと入ってくる、ということが中心になって描かれています。
猫は土地の所有なんてモノを、いっさい無視して土足でどこまでも入っていってしまう。ところが人間は、垣根というのがけっこう重大で……。
四つ目垣の画像をぼんやり見つめながら、第八章を読んでいました。主人は子どもたちの野球ボールがなんども庭先に飛びこんできておおいに怒ってしまうわけなんですが、漱石は「逆上」という言葉を、ずいぶんおもしろく取りあげています。本文に、こんなふうに書いています。
職業によると逆上はよほど大切な者で、逆上せんと何にも出来ない事がある。その中でもっとも逆上を重んずるのは詩人である。詩人に逆上が必要なる事は汽船に石炭が欠くべからざるような者で、この供給が一日でも途切れると彼れ等は手を拱いて飯を食うよりほかに何等の能もない凡人になってしまう。(略)
プレートーは彼等の肩を持ってこの種の逆上を神聖なる狂気と号したが、いくら神聖でも狂気では人が相手にしない。(略)
逆上は普通の人間を、普通の人間の程度以上に釣るし上げて、常識のあるものに、非常識を与える者である。女だの、小供だの、車引きだの、馬子だのと、そんな見境いのあるうちは、まだ逆上を以て人に誇るに足らん。主人のごとく相手にならぬ中学一年生を生捕って戦争の人質とするほどの了見でなくては逆上家の仲間入りは出来ないのである。可哀そうなのは捕虜である。(略)
逆上は一時に直らんでも時機さえくれば漸次回復するだろう、濡れ手拭を頂いて、炬燵にあたらなくとも…………
それから八章の最後に描かれている、西洋の積極主義、という言葉が印象に残りました。

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ゲーテは詩心についてこう記します。
わたしがどんなに迷ひ、どんなに努めたか
どんなに悩み、どんなに生きたかは
ここなる花輪の花となる
さうして老境もまた青春も
徳も不徳も集めて見れば
また捨てがたい歌となる

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