今日は夏目漱石の「こころ」その6を公開します。縦書き表示で全文読めますよ。
この第6回で、漱石の「こころ」は完結です。若き日の先生「私」と、暗い友人Kと、お嬢さん。この3人で同じ家に暮らしはじめる。善意の破綻とでも言うんでしょうか。良かれと思ってやっていったことが破滅へと至ってゆくシーンが描きだされています。
自分としては、ロンドン時代の漱石がカーライル博物館を訪れたときに記載したゲストブックにおける名前が K だったという記録から、神経症に陥った異邦の漱石がKのモデルなんではないか、と思いつつ読みました。
昔読んだときに気付かなかったのは、「私」がなぜ友人Kを破滅させてしまったのか、その元凶は善意にあった、という箇所で、この時代の大きい流れに共通した展開のように思えました。はじめは良かれと思ってやっていたことが、重大な局面を迎えると真逆の行為に及ぶようになる、という展開が、なんというのか……。本文には、Kを破滅させてしまったその始まりの箇所を、こう記しています。
私は彼を人間らしくする第一の手段として、まず異性の傍に彼を坐らせる方法を講じたのです。そうしてそこから出る空気に彼を曝した上、錆び付きかかった彼の血液を新しくしようと試みたのです。
漱石ってもしかして、親友の正岡子規に、こういう試みをしたことがあったんでないか、とか無関係なことも連想しつつ物語を読みすすめました。記録に残っている事実としては、子規と漱石はよく2人で一緒に寄席を見にいって、それが漱石の文学観に繋がっているということなんですが。
だとすれば「お嬢さん」というのは、じつは文学の化身なんではなかろうか。はじめ文学と深い繋がりにあったのは正岡子規で、子規が俳句で大活躍し文芸誌「ホトトギス」を創刊しているころには、漱石はまだ小説を発表したことがなかった。ただ中国文学や西洋文学に詳しいだけだった。
それがいつのまにか、立場が入れかわるように、漱石こそが近代文学の中心に居るようになったという、こういう事実がえーと、この物語に反映されているんでは無かろうかと、デタラメに空想していました。あるいは樋口一葉をイメージして漱石は「お嬢さん」を書いたのかもしれないとか。
すくなくとも、物語を読んでいるときに、これが遺書だとはちっとも思えない、色彩豊かな人間関係の描写が続くんです。この序盤の展開はすこぶる朗らかなんです。2人の男が破滅した、という物語を読んでいるとはとても思えない。可憐なお嬢さんをめぐる△関係の中でこう、「私」の内部に嫉妬が生じはじめるシーンがあるんですけど、ここが漱石の初期作品の快活な魅力と同じように、みごとな描写でした。
このままでは、良くないことになりそうだと言うことで、正直にお嬢さんへの思いをKに打ち明けて誤解の無いようにしておこうと、「私」は考えて、Kを旅に誘う。
漱石は、禅宗や浄土教に深い興味を抱いていたのですが、今回の小説ではなぜか日蓮を中心に描いています。Kは日蓮にものすごく傾倒している。
日蓮に興味を持てない「私」に対して、Kは「精神的な向上心が無いのは」イカンぞと、不快の意を示す。これがブーメランになってKを苦しめてしまうんです。他人への否定が自己否定に直結してしまう展開なんです。バカって言った奴がバカなんですーというのの、原典ですねコレ。
この物語の過程で「人間らしい」という言葉が用いられるのですが、どうにも印象深かったです。詳しくは本文を読んでみてください。
「その時私はしきりに人間らしいという言葉を使いました。Kはこの人間らしいという言葉のうちに、私が自分の弱点のすべてを隠しているというのです。なるほど後から考えれば、Kのいう通りでした。しかし人間らしくない意味をKに納得させるためにその言葉を使い出した私には、出立点がすでに反抗的でしたから、それを反省するような余裕はありません。私はなおの事自説を主張しました。するとKが彼のどこをつらまえて人間らしくないというのかと私に聞くのです。私は彼に告げました。――君は人間らしいのだ。あるいは人間らし過ぎるかも知れないのだ。けれども口の先だけでは人間らしくないような事をいうのだ。また人間らしくないように振舞おうとするのだ。
Kというのは、まだ作家になろうとしないで茫漠としたこころでロンドンの下宿に籠もっていた頃の、選ばなかった未来、選択されなかった未来なんではなかろうかと思いました。シミュラークルとしてのロンドンの漱石が、すなわちKなんではないかと思いました。ロンドンの漱石は、自分の未来をどうするか、どうも決められなかった。ゼロ地点の漱石なんです。そうして完全に孤独だった。漱石ほど友人関係の豊かだった作家は居ないと思うんですが、ロンドンの漱石はそうでは無かった。本文には、こう書いています。
……するとKはすぐ友達なぞは一人もないと答えたので、奥さんは驚いてしまいました。なるほどKに友達というほどの友達は一人もなかったのです。往来で会った時挨拶をするくらいのものは多少ありましたが……
漱石がロンドンに居た頃に子規と交わした手紙のことを、正直に綴った、漱石の随筆はこれです。漱石の「こころ」と同時に読むと、正岡子規の文学活動をつぐように小説を描き続けた漱石の文学観が伝わってくると思いました。
漱石は『吾輩は猫である』をはじめとした自分の作品を「地下に」いる正岡子規に「捧げる。」と明記している。漱石は「遠くから余の事を心配するといけないから、亡友に安心をさせる為め」ひょうひょうとした小説を書いた。「子規は今どこにどうして居るか知らない。」「子規がいきて居たら『猫』を読んで何と云うか知らぬ」漱石はこういうことを思いながら、小説を書きつづけたので、ありました。
Kと「私」とお嬢さんの恋愛は、さまざまな行き違いが起きて、いよいよ弁明のしようのない事態に発展する。Kから見れば、無二の親友のとんでもない裏切りの、略奪婚にしか見えない状況が現出してしまう。だが、「私」からすればはじめからお嬢さんと結婚をしたいという認識があったわけで、Kへの報告が大幅に遅れただけなのであります……。「私」は親友Kを裏切ったのだという明記もあります。本文こうです。
Kが理想と現実の間に彷徨してふらふらしているのを発見した私は、ただ一打で彼を倒す事ができるだろうという点にばかり眼を着けました。そうしてすぐ彼の虚に付け込んだのです。
私は復讐以上に残酷な意味をもっていたという事を自白します。私はその一言でKの前に横たわる恋の行手を塞ごうとしたのです。
「私」はけっきょく、Kよりも先に、お嬢さんと結婚したい旨を、彼女の母に伝える。Kを完璧に裏切ったのだという事実に思い至ったときの描写を、漱石はこう書きます。本文こうです。
もしKと私がたった二人曠野の真中にでも立っていたならば、私はきっと良心の命令に従って、その場で彼に謝罪したろうと思います。しかし奥には人がいます。私の自然はすぐそこで食い留められてしまったのです。そうして悲しい事に永久に復活しなかったのです。
この荒野バージョン、めっちゃ気になる、読んでみたい! と思いました。いきなり裏切った者同士の2人が、荒野に2人っきりで放り出されていたら、いったいなにがどう展開したのか。たぶんトルストイの「復活」終章みたいにダイナミックな物語になると思うんです。「こころ」ではそうではなくて、Kの人生が閉じてしまう。本文こうです。
その時私の受けた第一の感じは、Kから突然恋の自白を聞かされた時のそれとほぼ同じでした。私の眼は彼の室の中を一目見るや否や、あたかも硝子で作った義眼のように、動く能力を失いました。私は棒立ちに立ち竦みました。それが疾風のごとく私を通過したあとで、私はまたああ失策ったと思いました。もう取り返しが付かないという黒い光が、私の未来を貫いて、一瞬間に私の前に横たわる全生涯を物凄く照らしました。そうして私はがたがた顫え出したのです。
Kに詫まる事のできない私は、こうして奥さんとお嬢さんに詫びなければいられなくなったのだと思って下さい。つまり私の自然が平生の私を出し抜いてふらふらと懺悔の口を開かしたのです。
お嬢さんは泣いていました。奥さんも眼を赤くしていました。事件が起ってからそれまで泣く事を忘れていた私は、その時ようやく悲しい気分に誘われる事ができたのです。私の胸はその悲しさのために、どのくらい寛ろいだか知れません。苦痛と恐怖でぐいと握り締められた私の心に、一滴の潤を与えてくれたものは、その時の悲しさでした。
漱石の「門」13章でも記されていたのですが、漱石は「影」という言葉をとりわけ美しく使うんです。漱石の、影という描写の箇所だけを追っても、それだけで詩として成立しているというか、この言葉の扱いが印象深いんです。
卒業して半年も経たないうちに、私はとうとうお嬢さんと結婚しました。外側から見れば、万事が予期通りに運んだのですから、目出度といわなければなりません。奥さんもお嬢さんもいかにも幸福らしく見えました。私も幸福だったのです。けれども私の幸福には黒い影が随いていました。私はこの幸福が最後に私を悲しい運命に連れて行く導火線ではなかろうかと思いました。
漱石は、正岡子規と同じように、「修善寺の大患」以降は、死期の訪れを覚悟しつつ、創作に没頭したんだなと思える文章がありました。終盤での妻への気遣いの描写は、そのような事情によって記されたのではないかと、思いました。
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ここからは新サイトの「ゲーテ詩集」を紹介します。縦書き表示で読めますよ。
幼かった頃の夢想のことを、ゲーテは「黄金の空想よ」と記します。ゲーテの詩には、神話的なものと理知的なものが混在していて、これが魅力のように思います。ゲーテはゲルマン神話と、とくにギリシャ神話の影響が色濃いようです。
この詩集は生田春月が翻訳をした作品です。ゲーテは政治家としても活躍し、かのナポレオンからも尊敬されていた作家で、その言葉を詩で楽しめるというのは、なんだか嬉しいように思います。
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