彼岸過迄(8)雨の降る日(前編)夏目漱石

今日は夏目漱石の「彼岸過迄ひがんすぎまで(8)雨の降る日(前編)」を公開します。縦書き表示で全文読めますよ。
 
 
田口はデタラメなことをしたようでいて、ちゃんと敬太郎に仕事を用意してくれた。敬太郎は、先達の家に出入りしているうちに、このまえ逢った千代子とだんだん親しくなってゆく。
 
 
漱石はある固定的な物語の型をつくってから、後半にゆくにしたがってだんだん均して読みやすくしてゆく文体が多いと思うんですけど、「草枕」の、美文から物語文へとじっくり変化してゆく文体が秀麗だと思うんです。今回も後半に向かうにしたがって、独特な文体の型を溶かしていって、物語の進行のほうに意識を集中してゆく展開になっています。絵画にヌケがあるように、漱石の小説にもすらすら読める箇所があって、今回の「雨の降る日」が緩い描写になっています。
 
 
ここまで主人公敬太郎の視界から見えたものを中心に、話しが展開してきてカメラはずっと敬太郎に密着していたんですけど、今回から急に、カメラが千代子の世界を追いはじめる。この場面切り替えが乙なんです。前回は中国へ移住していった友人の「洋杖」を中心にして、物語がガラッと入れかわったんですが、今回は「雨の日は逢わない」という奇妙なルールを中心にして、時間軸と登場人物が入れかわってます。
 
 
そこで芭蕉という植物が雨に打たれるときの音が話題になります。wikiによれば、松尾芭蕉の芭蕉は、この植物から由来しているそうです。はあ、そうだったんだと思いました。主人公がいったん消えてしまって、千代子と幼子の宵子よいこの朗らかな暮らしが描きだされます。漱石の女性の描写は、繊細で美しいんです。小津安二郎の映画みたいなんですが、そこから急に不幸が描写されます。はっと息をのむ展開なんです。
 
 
 


 
 
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山羊の歌(38) 中原中也

今日は中原中也の「山羊の歌」その38を公開します。縦書き表示で全文読めますよ。
 
 
今回の詩でも、中也は詩の宛先を書いています。詩の献辞みたいなことをしています。相手は関口隆克(1904~1987)という方です。中也ととても親しかったらしいです。1928年(昭和3年)5月から約半年間ほど、中原中也は下高井戸で、関口隆克と自炊生活をしていたことがあるそうです。
 
 
ぼくの脳みそはどちらかといえばポンコツで、詩を暗記する能力に乏しいんですが、いちばん好きな詩くらいは、憶えてみたいと思うんです。記憶力が今ひとつだと逆に良いこともあって、近代文学を新鮮に読み直すことが出来るのは嬉しいんです。良いものを、くりかえし読めます。
 
 
この 「修羅街輓歌 序歌」 という詩を、せめて冒頭の5行くらいは、暗記してみたいと思いました。中原中也が「返つて来い!」と書くと、ものすごく印象に残ります。みごとな詩でした……。これが読みたかったんだと思いました。
 
 

 
 
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戦争論 坂口安吾

今日は坂口安吾の「戦争論」を公開します。縦書き表示で全文読めますよ。
 
 
これは第二次大戦が終わって数年目に書かれた随筆なんです。GHQの占領下にあって、原爆のことは検閲が敷かれており、その主だったルールは「報道は真実と事実に即して書かれること」とか「連合軍軍隊の動向に関し、公式に発表解禁となるまで報道禁止」とか「報道記事は宣伝目的で事実を誇張してはならない」また「記事には記者の意見をつけ加えてはならない」というようなものだったんです。くわしくはwikiをご覧ください。


それであの、坂口安吾は原爆の問題を論じるときに、1945年の8月6日までは、そこまで極端なことが起きるとは、ほとんど誰にも空想さえ出来なかったということを記しています。イメージするというのは一瞬で出来て簡単なはずなんですが、その想像力を完全に越えてしまっているのが原爆だった。
 
 
極端な事態が、イメージさえ出来ていなかった……。坂口安吾は作家として、原爆投下が起きるという未来をイメージできなかったということを、この随筆で重大視してるんです。広島という都市への原爆投下の酷さは、それが実行される前には「誰一人、夢想することも出来なかった」と書いている。こんご原爆が使われないことを願いながら、坂口安吾はこう書くんです。「すべて、物事には、限度というものがある。」原爆投下はこの限界を越えていた。これ以上の人間的被害はありえないと書き、それで安吾はこう結論づけます。「もはや、戦争をやってはならぬ。断々乎として、否、絶対に、もはや、戦争はやるべきではない。」
 
 
安吾はこの随筆で様々に興味深いことを書いているんです。戦争の時代から平和の時代に移り変わった、その混沌の現場に居て、安吾がさまざまなことを言っているんです。ぼくは日本に足りていないのはフランスにあるような、息の長いデモとストのあり方だ、と思っているので、この随筆の一部に反論したい箇所もあるんですが、安吾は大胆に、ストライキで群れたりすること無く、自由に生きろと、書きます。
 
 
安吾はたしかに、戦時中に徴兵も退けて特高からも被害を受けていないんです。あらゆる人に赤紙が行ったのに、いったいどうやって大日本帝国に巻きこまれずに、自由に生ききれたのか、自分には見当もつかないんですが、安吾のアナーキズムはものすごいもんだと思いました。
 
 
いろんな人びとに対して愚を繰り返すな、働きアリになるな、と安吾が言っている。「こりることを知らない」と安吾が繰り返し叫ぶんです。着眼する箇所によって、内容が多様に変化するような奥行きのある随筆なんです。
 
 

 
 
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彼岸過迄(7)報告(後編)夏目漱石

今日は夏目漱石の「彼岸過迄ひがんすぎまで(7)報告(後編)」を公開します。縦書き表示で全文読めますよ。
 
 
米国のハードボイルド小説に登場する探偵のような中年男を、漱石は描きだしたいんではなかろうかと思いました。いや、漱石は一貫して暇と時間が多分にある男を描こうとしているわけで、探偵とはほとんど逆側にいる男を描いてきたんですけど、どうも今回の登場人物は硬派なんです。本文こうです。
 
 
  ただ一つ敬太郎の耳に新らしく響いたのは、露西亜ロシヤの文学者のゴーリキとかいう人が、自分の主張する社会主義とかを実行する上に、資金の必要を感じて、それを調達ちょうたつのため細君同伴で亜米利加アメリカへ渡った時の話であった。その時ゴーリキは大変な人気を一身に集めて、招待やら驩迎かんげいやらに忙殺ぼうさつされるほどの景気のうちに、自分の目的を苦もなく着々と進行させつつあった。ところが彼の本国かられて来た細君というのが、本当の細君でなくて単に彼の情婦に過ぎないという事実がどこからか曝露ばくろした。すると今まで狂熱に達していた彼の名声が、たちまちどさりと落ちて、広い新大陸に誰一人として彼と握手するものが無くなってしまったので、ゴーリキはやむを得ずそのまま亜米利加を去った。というのが筋であった。
  
 
漱石は、英文学とドストエフスキーから深い影響を受けた作家だと思うんですけど、アメリカも描いてみたかったんで、なかろうかと思いました。
 
 
主人公敬太郎は、わざわざ、自分が田口に雇われて、ちょっと前までスパイの仕事をしていて、なんの因果でやって来たのかを、ぜんぶ漏らさず、正直に話してしまう。じゃあウソの報告でもすると良いと言って、田口が高級娼婦と不倫していたと報告してくれと頼まれる。松本は田口の義弟で、じつは主人公の友人とも関係がある、という奇妙な事実を知る。
 
 
敬太郎は単に、親戚同士で仲良く食事をしたところを、尾行しただけだったんで、ありました。探偵の仕事をもらったと思っていたら、たんにイタズラの片棒を担がされたというか、イタズラされただけだったんです。仕事だと思ったのに、仕事じゃなかった。けれども、どうもやっぱりダマして終わりじゃなくて、べつの仕事は用立ててくれるらしいんです。ここらへんが江戸っ子というかなんというか。
 
 
こういうのを、アンチクライマックスと言うんだろうと思って、wikiでこの技法を調べていたら、修辞技法って30種類くらいあるんですね。関係無いんですけどビックリしました。
 
 
ひょうひょうとした小説で、ほかの伝統的文学と比べるとずいぶん剽軽な人物像を描きだしている。これが漱石のそもそもの原点なんでなかろうかと思いました。漱石は柳家小さんの「うどんや」という落語を好んでいたらしいんです。正岡子規と漱石が、若いころに一緒に見てた寄席の、その内容を調べてみたいと思いました。この文章が印象にのこりました。
 
 
  ……君だからそう思うんじゃない、誰を見てもそう思うんだから仕方がないさ。ああして長い間人を使ってるうちには、だいぶだまされなくっちゃならないからね。たまに自然そのままの美くしい人間が自分の前に現われて来ても、やっぱり気が許せないんです。それがああ云う人の因果いんがだと思えばそれで好いじゃないか。
 
 

 
 
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山羊の歌(37) 中原中也

今日は中原中也の「山羊の歌」その37を公開します。縦書き表示で全文読めますよ。
 
 
近代文学の魅力は、自然界の描写が現代作品よりも密に描かれていることだと思うんですが、今回は秋の始まりの詩です。
 
 
作中で、死期について論じている箇所があって、少し調べてみたのですが、1929年(昭和4)ごろに書かれた詩がこの詩集の中心にあって、中也が亡くなるのは1937年(昭和12)でもっとのちのことで、満30歳まで生きたんです。
 
 
中也はこの詩で、親友の死期のことを描いたのだろうか、と思いました。富永太郎というのが彼の6歳年上の親友だったそうです。詳しくはwikiをごらんください。 
 
 
中也の詩を読んでいると、自分よりも精神的に年上のようにも思えるし、年下のようにも思えるのは、年表を見ていると納得のゆくところがありました。
 
 
今回の詩は、数百枚の小説を凝縮させたような描写なんです。なんだが中編の小説を読み終えたような読後感がありました。
 
 

 
 
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日本で最大の南天材 牧野富太郎

今日は牧野富太郎の「日本で最大の南天材」を公開します。縦書き表示で全文読めますよ。
 
 
この随筆、面白かったです。南天は、植物としてはそれほど珍しくなくて、江戸時代にも現代にもそこらじゅうの庭に植えてあるし、野生化したのもけっこうあるようなごく一般的な木なんですが、材木としては非常に貴重なモノらしくて、あんまり太い木には成長してくれない木なわけで、この柱はもう貴重この上ない。たいへん高値で取引されている。
 
 
本を読むと自分とまったく縁の無い世界を知ることが出来るんだなあと、今さらながら本の雑学性や多様性に驚かされました。南天の太い幹は、めったに存在しない。だから金閣寺の柱も南天が使われているわけで、普通は箸にも棒にもかからないような細い枝しか無いわけなんであります。南天の難点は、なかなか太くならないことで、ナンテンの語源は「難を転ずる」という意味から来て、縁起の良い木なんだそうです。はい。
 
 
むつかしい言葉を調べてみました。
 
 
烏有に帰す。
 
 

 
 
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彼岸過迄(6)報告(前編)夏目漱石

今日は夏目漱石の「彼岸過迄ひがんすぎまで(6)報告(前編)」を公開します。縦書き表示で全文読めますよ。
 
 
章と章の繋がりが興味深いんです。漱石は作品ごとにまったく異なる文体や新しい展開を作り出す場合が多いんですけど、今回は、あっさりと前回の内容を引き継いでいる。「停車場」という謎の物語に対して、その事態の「報告」が今回の物語なんです。
 
 
今回の物語の転がりかたが、敬太郎だけを残して他すべて通りすぎて行ってしまう、敬太郎だけを残して他はすべてごそっと入れかわるところに、作者の漱石だけが同一人物で、物語の登場人物がすっかり入れ替わっているような、漱石の心の旅路を見ているような不思議さがあってすてきなんです。
 
 
この、章と章や、作品と作品の間にある、真っ白な空間が、漱石のは特別にいいんだと、いわばピカソの展覧会の、青の時代の部屋とキュビスムの時代の部屋とのあいだにある空間を移動している時の、あの特別な感じが、漱石には、やっぱりあるんだと。
 
 
その作品同士の協和音が顕著なのはやっぱり、「三四郎」から「それから」の間の完璧な空白地点こそこれだと思うんですけど漱石は絶対に、作品と作品の姉妹関係に関して意識的だったと思うんですが、本作では、前回の章をふり返る意識が軽妙に記されているんですよ。
 
 
探偵としてどこまで事実を報告したものか、という問題に、主人公敬太郎は迷うんですよ。これ現代でもありえる悩みだなと思いました。これから一般人に対して警察が共謀罪を用いた捜査をする可能性が高まっているわけで、そこである若手の刑事が、これは憲法違反の可能性があると、憲法の19条21条に違反するかもしれないと、憲法と照らしあわせて行動をすることになる。だが、上司や政府からは憲法とは異なる命令が来る。
 
 
敬太郎は不法なことはしておらず、ただ公共の場で普通に見ることが出来るところだけを見ていったわけですが、ただ対象者では無い相手まで細部まで調べてしまっている。さらには、調査の報告をもっともらしくするために、憶測で人物像を伝える工夫までしはじめてしまう。Xと女が恋愛関係なのかどうかさえ、印象から判定して答えなきゃいけなくなったりする。こうなると事実の報告とは言いがたくなってしまう。
 
 
敬太郎は悩んだ末に、恋愛の関係はあるようにも思えるが、無いかもしれない、と述べている。確定させず、あいまいに言わざるを得なかったところを、雇い主の田口は、それは正直だと誉めるんです。敬太郎は、ほんとなら、直に逢って直接話を聞くのがまっとうなはずだと、そう言うんです。
 
 
すると雇い主の田口はもっともだと思って、紹介状を書いて、Xと敬太郎とが話し合うように用意すると言った。就職先も用立ててくれる可能性もあった。Xの名は松本恒三で、敬太郎は彼と逢うことにした。松本の家では、雨の日には逢えないという、奇妙なことを言われた。敬太郎は、晴れの日に出直すことにした。次回に続きます。
 
 

 
 
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