卍(まんじ) 谷崎潤一郎(1)

今日は谷崎潤一郎の「卍 まんじ」その1を公開します。縦書き表示で全文読めますよ。
 
 
今回から、6回くらいかけて谷崎潤一郎の代表作を読んでみようと思います。谷崎の小説を読むのが僕ははじめてなので緊張するんですけど、読んでみるとするすると読める作品で、谷崎潤一郎は漱石文学を崇敬しているんですけど、そこから現代的に、小説を進化させた作家のように思いました。森鴎外や樋口一葉のような難読性はないので、物語自体に引き込まれます。
 
 
美しい関西弁で紡がれるんですが、手紙文や会話文のような、主人公の一人語りで物語が展開するんです。ある既婚の女が先生に告白をしている。主人に内緒で不倫をしていた……。ただ深い仲というわけでもなかったんですが、その相手が忘れがたくて、悶々としている女がいる。「ええことない男やった」という記述が印象的でした。その女が、社会人も自由に入れるような、ある女学校に通いはじめた。絵画を学習中に、デッサンをしていてふと、彼女は光子さんという人を無意識に描いていた。
 
 
彼女はどうも、恋に吸い寄せられる人生のようで、急にこの光子さんにたいして気持ちが入ってしまった。恋の依存症になっているようなんですが……。
 
 

 
 
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彼岸過迄(2)風呂の後(前編)夏目漱石

今日は夏目漱石の「彼岸過迄ひがんすぎまで(2)風呂の後〈1〜7〉」を公開します。縦書き表示で全文読めますよ。
 
 
自分は酒が飲めないので、ちょっと気になったんですが、漱石は意外と酒の話しを書かないんですよ。あのいかにも酔っ払いのハナシが出てきそうな「吾輩は猫である」であっても、ほんの7場面くらいしか酒の話しが出てこないですし、猫がビールを飲んで悪いことが起きるシーンまであって、酒の面白さはほとんど描写されない。坊っちゃんにも、酒はほとんど扱っていない。草枕では主人公が酒を飲むシーンがない。その時代の娯楽状況でいえばもっとたくさん出てきて良いんですけど、あんまり出ない。
 
 
調べてみると、「それから」では主人公の代助がよく飲むんです。今回の「彼岸過迄」冒頭では、こんな描写でした。
 
 
  で、今夜は少ししゃくも手伝って、飲みたくもない麦酒ビールをわざとポンポン抜いて、できるだけ快豁かいかつな気分を自分といざなって見た。けれどもいつまでっても、ことさらに借着をして陽気がろうとする自覚が退かないので、しまいに下女を呼んで、そこいらを片づけさした。
 
 
主人公の敬太郎は酒があんまり飲めない。また作中で、こういう発言があって印象に残りました。
 
 
  不思議ですね。酒を飲まないくせに冒険を愛するなんて。あらゆる冒険は酒に始まるんです。そうして女に終るんです
  
 
それで、どういうふうに話しがはじまるかというと、昼日中から、銭湯で休息をしまくっている話しなのです。本文こうです。
 
 
  「僕の事はどうでも好いが、あなたはどうしたんです。役所は」と聞いた。すると森本は倦怠だるそうに浴槽のふち両肱りょうひじを置いてその上に額をせながら俯伏うっぷしになったまま、
「役所は御休みです」と頭痛でもする人のように答えた。
「何で」
「何ででもないが、僕の方で御休みです」
敬太郎は思わず自分の同類を一人発見したような気がした。それでつい、「やっぱり休養ですか」と云うと、相手も「ええ休養です」と答えたなり元のとおり湯槽ゆぶねの側に突伏つっぷしていた。
 
 
カフカの諸作とかドストエフスキーの『分身』にも似た、不思議な文章も記されています。本文こうです。
 
 
  敬太郎けいたろうはこのせながら大した病気にもかからないで、毎日新橋の停車場ステーションへ行く男について、平生から一種の好奇心をっていた。彼はもう三十以上である。それでいまだに一人で下宿住居ずまいをして停車場へ通勤している。しかし停車場で何の係りをして、どんな事務を取扱っているのか、ついぞ当人に聞いた事もなければ、また向うから話したためしもないので、敬太郎には一切がエックスである。
 
 
途中でさまざまに、奇妙な作中作であるかのような、挿話が挟み込まれるんです。これがひとつひとつなんだが印象深い。鈴の音を鳴らして山登りをする盲人の話し。門の閉じた深夜の寺にむかって、婚礼の時のような鮮やかな振袖を着て歩いて行った女。蛸たちに囲まれて、大ダコと決闘をしてピストルを連射したら、弾丸がするするすべって外れていった話し……。
 
 
敬太郎は大学を卒業したが仕事が無い。そうしてあらゆる仕事や奇妙な経験をし続けてきた男森本を、変に尊敬している。先達のほうでは冒険が得意なのだが、どうも学が無いから経験を生かすことができないと思っている。
 
 
敬太郎は、先輩にこう聞くんです。「あなたが今までやって来た生活のうちで、最も愉快だったのは何ですか」これについて彼が自分の経験を語ってくれるわけなんですが……。次回に続きます。漱石がもっとも愉快に感じたことは、なんだったのかなと思いました。正岡子規との交友の中になにかありそうです。
 
 

 
 
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彼岸過迄(1)序文 夏目漱石

今日は夏目漱石の「彼岸過迄(1)序文」を公開します。縦書き表示で全文読めますよ。
 
 
今日から、「彼岸過迄ひがんすぎまで」という漱石の代表作を読んでゆこうと思います。今回は、その序文です。
 
 
三四郎それから というのが漱石の前期三部作なんですが、この彼岸過迄というのは後期三部作の作品で、なんだか読むのが楽しみです。漱石は、「修善寺の大患」以降、内容の重い文学作品を描くようになったわけで、ぼくはどうも前期の作品「それから」あたりがいちばん好きなんですけど……、後期の作品の中でかなり代表的な作品がこの「彼岸過迄」なので、これはすごい小説なんじゃなかろうかと思いながら、今読みはじめているところです。
 
 
漱石は、大病をしたあとに二ヶ月間ゆっくり休んだのだと記しています。それでようやっと本格的に、この彼岸過迄を書きはじめることにした、ということを読者に対して、率直に記しています。体調や環境が整って、やっとちゃんとした小説を書けるようになってきた。本文にこう書いています。
 
 
  いよいよ事始める緒口いとぐちを開くように事がきまった時は、長い間おさえられたものが伸びる時のたのしみよりは、背中に背負しょわされた義務を片づける時機が来たという意味でまず何よりもうれしかった。
 
 
漱石は、後期に於いても、書くことが喜びであったのだと判って、なんだかとても嬉しくなりました。ぼくは漱石の小説を読むのがおもしろくてしょうがないところなんですが、後期作品はどうも重々しくてむつかしい。漱石は今回「久しぶりだからなるべく面白いものを書かなければすまないという気がいくらかある。」と書いています。これは楽しんで読めるんじゃないかなと思っているところです。また、漱石はこの序文に、ちょっとした創作論を書いているんです。本文こうです。
 
 
  ……ただ自分らしいものが書きたいだけである。手腕が足りなくて自分以下のものができたり、衒気げんきがあって自分以上をよそおうようなものができたりして、読者にすまない結果をもたらすのを恐れるだけである。
 
 
漱石は、素朴に自分らしい作品を書いて、読者に見せたいんだという。漱石は自分の読者はこういう人だろうと、考えている。本文こうです。
 
 
  ……自分の作物さくぶつを読んでくれる人は何人あるか知らないが、その何人かの大部分はおそらく文壇の裏通りも露路ろじのぞいた経験はあるまい。全くただの人間として大自然の空気を真率しんそつに呼吸しつつ穏当に生息しているだけだろうと思う。自分はこれらの教育あるかつ尋常なる士人の前にわが作物をおおやけにし得る自分を幸福と信じている。
 
 

 
 
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こころ(1) 夏目漱石

今日は夏目漱石の「こころ」その1を公開します。縦書き表示で全文読めますよ。
 
 
今日から全6回にわたって漱石の「こころ」を読んでみようと思います。序盤の物語展開が、初期作品の「吾輩は猫である」の仕組みにちょっと似ているんです。まずひたすらに、猫のように、「先生」をただただ見ているという青年が現れます。ノラネコが相手を追いかけるみたいに、浜辺に居る先生を追ってゆく。この語り手は、なんというかかなり透明な存在で、自分の存在を誇示しない。3章の中間までなにも言わない。
 
 
4章から先生とのつきあいが始まる。小説がはじまって10分後のところからすでに、物語全体の展開が示されています。こういう文章です。
 
 
  私はなぜ先生に対してだけこんな心持が起るのかわからなかった。それが先生の亡くなった今日こんにちになって、始めて解って来た。先生は始めから私を嫌っていたのではなかったのである。先生が私に示した時々の素気そっけない挨拶あいさつや冷淡に見える動作は、私を遠ざけようとする不快の表現ではなかったのである。いたましい先生は、自分に近づこうとする人間に、近づくほどの価値のないものだからせという警告を与えたのである。
 
 
推理小説や一般映画ならことの真相を隠して物語を進めるはずなんですが、漱石はよく、物語の大筋を序盤にはっきりと明示するんです。これが読んでいて、なぜか興味深くなる文体というか、漱石は全体像を見せてから、徐々に内部の動向を開示してゆく。おおよそこうであった、という全体を見せてから、その真相を細部まで詳らかにしてゆく、という文体で、構成が美しいと思います。さらに漱石の全作品も、物語同士が相似しつつ進化するように構成されていると思います。いちど小さくオチを書ききってから、さらにそれを大きく展開させて物語を書くというような、なにかこう雪の結晶の構図みたいに、文章と章と起承転結と作品同士が連なっているように思います。はい。
 
 
僕の年齢では、漱石の「こころ」が、まだどうもむつかしすぎて判らない……のですが、今回序盤を読んでいて思ったのは、漱石がこれまでの作風からさらに前に進んで、よりいっそう深い物語の奥底へと向かっていると思いました。本文に、こういう文章があります。
 
 
  …………
  不安にうごかされるたびに、もっと前へ進みたくなった。もっと前へ進めば、私の予期するあるものが、いつか眼の前に満足に現われて来るだろうと思った。
 
 
漱石の前期作品から中期へ、そして後期作品を読みはじめるようになって読者である自分が感じていることを、この「こころ」の語り手が書いている、と思いました。「こころ」は、とても読みやすい文章で構成されているんですけど、内容が極端にむつかしいように思うんです。先生の示そうとしている「価値のないもの」というのは、いったいなんなのか……。全部読み終えてみても、未だに判らないです。この物語には、小説のモデルがぜったいに居るわけが無いというか、この世界に居るはずの無い人間としか思えない「K」が登場しますし、「ない」存在というのが大写しになってると思うんです。謎めいた小説なんだと、思いつつ読んでいます。
 
 
ところで、この小説は、じつは「心」という連作短編集のなかの一つの短い物語にするつもりで、書きはじめたものなのだそうです。ところが書いているとものすごい長編になっていったので、けっきょくは長編小説として完成させたんだそうです。
 
 
 
漱石がなんでまた「こころ」でこんなふうに暗いことを深く掘り下げて描いたのか、他の漱石作品と比べてどうも判らない、というふうに思っている自分にとって、「私」の立ち位置と感覚は、なんだか理解できると思いました。漱石ははじめ、短編としてこれを書こうとした。書いていて、どうも捨て置けない、文学上重大なものを発見したから、漱石はこれを代表的な長編小説にまで育てあげた。序盤に、書き手の漱石自身をものすごく惹きつけた箇所がまちがいなくあるはずなんです。それが、いったいなんなのかがまた、謎だと思いました。
 
 
なんだか不思議な描写があって、「先生」ははじめ知り合いの外国人と海で泳いでいたという描写がある。奥さんは日本人なのに自分のことを混血だと言ったりする。両親の出生地が鳥取と東京で遠いことを、むかしは混血だと冗談みたいに言ったそうなんです。これ現代のドラマにするとしたら、奥さんはロシア人とのハーフだったりするかもしれないなと思いました。
 
 
あとやっぱり漱石は、正岡子規が結婚できなかったことについて考え続けていて、これを書いたとしか思えないなと、感じる描写がありました。漱石はこの物語で、当時はまだ成立しがたかった恋愛結婚に関して様々に記しています。自分の認識では、恋は一方通行で、愛は双方向性のものだという区別を付けているんですが、漱石はどうもそういう概念で書き分けているようでは無いですよ。「先生」と「さい」は、出会ったばかりの頃、かつてともに惹かれあっていた。それがまさに恋だったわけで、だがその関係は罪悪だったと、「先生」は述べるんです。
 
 
この描写が奇妙な表記で、誤植じゃ無いかと思って原文を調べたんですが、やはりこういう記述でなんとも乙でした。会話文のところが、丸括弧( )カッコ書きになっている。( )って、注釈というか、通常なら言葉にされないけど、じつはこうだ、という記述のはずなんですが、会話の中でこの ( ) が挿入されている。先生の妻が「私」に述べるシーンで、こういう原文です。
 
 
  「そりゃ私から見れば分っています。(先生はそう思っていないかも知れませんが)。先生は私を離れれば不幸になるだけです。あるいは生きていられないかも知れませんよ。そういうと、己惚おのぼれになるようですが、私は今先生を人間としてできるだけ幸福にしているんだと信じていますわ。どんな人があっても私ほど先生を幸福にできるものはないとまで思い込んでいますわ。それだからこうして落ち付いていられるんです」
 
 
妻の立ち位置から見た「こころ」というのが当然存在するんだと、今ごろ気づきました。先生が、年下の「私」に対して述べた、この言葉が印象に残りました。
 
 
  私は未来の侮辱を受けないために、今の尊敬をしりぞけたいと思うのです。私は今より一層さびしい未来の私を我慢する代りに、淋しい今の私を我慢したいのです。自由と独立とおのれとにちた現代に生れた我々は、その犠牲としてみんなこの淋しみを味わわなくてはならないでしょう。
 
 

 
 
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夢十夜 夏目漱石(10)

今日は夏目漱石の「夢十夜」その10を公開します。縦書き表示で全文読めますよ。
 
 
今回で、「夢十夜」完結です。マチスの肌色や黄色の、かすれたような荒い筆遣いが良い、という感じで、漱石の僅かな文体の乱れが、読んでいて心地良いのではないかとか、思いました。こういう本文です。
 
 
  庄太郎が女にさらわれてから七日目の晩にふらりと帰って来て、急に熱が出てどっと、床にいていると云ってけんさんが知らせに来た。
 
 
どっと、という文字が良いとか、どっと、の位置がちょっとズレてるとか、どうでもいいところが気になりました。庄太郎というのが、なにか奇妙なものをいつも見たがる。往来をゆく女たちと、水菓子を見ているのが好きだという。
 
 
マチスがもし日本人で、絵画のほかにも小説を書いたら、こういうのを書くんでないだろうかと思いました。はい。豚とパナマ帽がやけに印象に残りました。
 
 
なんだ、夏目漱石の狙っていたのは、ここだったのかと、衝撃を受ける第十夜でした。娯楽性やユーモアに関してなら現代人の作品のほうがはるかに秀でていると思っていたんですが、これはちょっと、すごいおもしろい作品だと思います。
 
 

 
 
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夢十夜 夏目漱石(1)

今日は夏目漱石の「夢十夜」その1を公開します。縦書き表示で全文読めますよ。
 
 
今回から十回にわけて夢十夜を読んでゆきたいと思います。夢という仕組みを圧倒的に使いこなした作家と言えば、ドストエフスキーがまず思いうかぶんですけど、夏目漱石は第一声で「吾輩わがはいは猫である。名前はまだ無い。」から始めた、特別に技法の冴える作家で、夢について描くのも一文目からいきなりで、全体的に夢の世界を描きだしていて、仕組みが華麗だと思いました。
 
 
夢の内部の情景を色彩豊かに描写しているんです。なんだか漱石が印象派の絵画を描きだしているような、幻想的な文体です。本文こうです。 
 
 
…………女はぱっちりと眼をけた。大きなうるおいのある眼で、長いまつげに包まれた中は、ただ一面に真黒であった。その真黒なひとみの奥に、自分の姿があざやかに浮かんでいる。
自分はとおるほど深く見えるこの黒眼の色沢つやを眺め……
 
 
オフィーリアの受難を、静謐に描きだしたジョン・エヴァレット・ミレーの絵画を想起しながら、この小説を書いたのかなあ……と空想しました。 
 
 
普通の小説では、同じことを二回言ったりしないことが多いと思うんですよ。でも漱石は今回、なぜだか同じ言葉を、歌か詩のように繰り返すのが、読んでいてとても心地良いんです。作品ごとにこんなにも鮮やかに文体を変えられるなんてすごいやと、息をのみました。終盤の花の咲く描写が美しかったです。
 
 

 
 
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ゴリオ爺さん(1) バルザック

今日はバルザックの「ゴリオ爺さん」その(1)を公開します。縦書き表示で全文読めますよ。
 
 
今日から12回にわけて、バルザックを読んでみます。4章で完結する長編小説です。
 
 
坂口安吾が、ある随筆で、ドストエフスキーと並んで優れた作家として、このバルザックの名をあげているんです。坂口安吾にとってもっとも重大な文学ということで、さっそく読んでみたいと思います。
 
 
作者はいきなり冒頭から、衝撃の結末が描かれているので、パリ中の涙を誘うことができるだろう、と予言して、さらにこれは紛れもない実話なんだ、と書きしるして、この物語をはじめています。なんだろうかという始まり方です。
 
 
手練手管の語り口だ、と思わせるのは、低地という独特な地形にくわえて、食事付きの下宿というのが登場するところです。舞台設定が完璧だな……とか思いながら読みました。その安アパートは薄汚れていてすごい匂いがするんですが、おかみさんは人情味のある人で、困っている人たちを安い家賃で住ませてメシを作ってあげている。
 
 
wikipediaに判りやすい小説紹介がありました。こう書いています。
 
 
  1819年のパリを舞台に、子煩悩な年寄りゴリオ、謎のお尋ね者ヴォートラン、うぶな学生ウージェーヌ・ラスチニャックの3人の生き様の絡み合いを追う。
 
 
この3人と宿のおかみさんヴォーケが主人公みたいです。
 
 
この流麗な語り口が好きになりました。
 
 
  ……
  結局こういう男を見ると我々は次のように言うのだ。『まあ彼のような人間もいないと困るんだ』美しいパリは道義的な、あるいは肉体的な苦痛で真っ青になっているこの人物には気づかない。しかしパリは真に大海なのだ。その深さを測ってみ給え、貴方は決してどれほど深いのかを知ることは出来ない。……
 
 
ウージェーヌ・ド・ラスチニャック(ラスティニャック)というのが貧乏な家出身の、向上心の旺盛な学生で、この登場シーンが印象深かったです。この若者は、優雅な女を射止めて、金持ちになってやろうと考えて、乱暴な野心でもって突き進み、学生なのに社交界の中にどんどん入りこんでいるところなのです。
 
 
3人ともみんなそれぞれに、挫折を抱えて生きている。みな哀れさの中で暮らしている。その中でも、ひときわ惨めな存在と、思われているのが、ゴリオじいさんなので、ありました。
 
 
ところがこのおじいさんは、じつはたいへん高額な年金を受けとっているようである。ではなぜヴォーゲおばさんの安い下宿にいつまでも住んでいるのか? ゴリオじいさんの娘たちは、大変に裕福で、パーティードレスにしか思えない高価な服をきて、ときどきこのゴリオじいさんが住みはじめた、ボロアパートのメゾンヴォーケにやってくる。
 
 
おかみさんは、なんだかゴリオじいさんに対して怒っている。ゴリオ氏が金持ちなのか貧乏人なのか、さっぱり判らないから、なんですが……どうも、彼は娘たちを愛するあまり、破産してしまったらしい。
 
 

 
 
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(作中[1][2][3]などの数字表記があります。その箇所を解説した訳註はこちらをご覧ください。)





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