猫 宮沢賢治

今日は宮沢賢治の「猫」を公開します。縦書き表示で全文読めますよ。
 
 
宮沢賢治で 猫 と言えば、「猫の事務所」という童話が有名で、「どんぐりとやまねこ」などのように動物や植物や鉱物の擬人化された作品が多いと思うんです。
 
 
ユーモラスなものと、清いものと、それから怖ろしい物語とが、さまざまにあると思うんです。もう一つ顕著な特徴は、意味から解放されたような不可思議な作品がある、というのが宮沢賢治の特別な魅力に思います。
 
 
今回のは、じつに不思議な掌編で、これが詩なのか物語なのか日記なのかさっぱり判らないんです。どうしてこうなったんだろう、どうやってこれが残されたんだろう、と思いながら読みました。じつに奇妙な読後感でした。
 
 
ネズミのひとり言のような記述にも思えるし、小鳥のひとり言を書き記したものかもしれないし、人間の「友達」の話し声を書き記したものかもしれないです。
 
 
調べてみると、アンデルセンの作品に「みにくいアヒルの子」という童話があって、そこに幼い鳥をいじめる猫が登場するんです。賢治はそのことを思って、この掌編を書いている。賢治はこの掌編に『アンデルゼンの猫を知ってゐますか』と書いています。
 
 
ほんの1ページほどの作品で『 猫は立ちあがりからだをうんと延ばしかすかにかすかにミウと鳴きするりと暗の中へ流れて行った。 』という記述で話しが途切れて終了してしまっている。
 
 
これは作品と言うよりも、メモというか走り書きというか、断片なのかもしれない、と思いながら読みました。賢治の作品を本に纏めた方なら、どこから発掘した文章か、判るはずなんですけど。
 
 
ただ、アンデルセンの「みにくいアヒルの子」のことを考えたことがあって、それでのちに「猫の事務所」を作ったんだろうなとか、賢治の謎を追う上で貴重な断片のように思います。どうしてあの物語で、いかめしい金色の獅子がわっと出てきたのか、その謎を追うための、鍵みたいな掌編だと思いました。
 
 

 
 
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彼岸過迄(10)須永の話(前編)夏目漱石

今日は夏目漱石の「彼岸過迄ひがんすぎまで(10)須永の話(前編)」を公開します。縦書き表示で全文読めますよ。
 
 
「千代子さんは須永君の所へ行くのだとばかり思っていたが、そうじゃないのかね」
「そうも行かないでしょう」
「なぜ」
 

というように物語は始まります。この小説は、子規に読ませたい物語なのだ、と思いながら読んだんですが、これは単なるぼくの妄想というわけでもなく、漱石は随筆にそういうことをちょっと書いてますよ。亡友の子規なら、自分の書いた物語をどう楽しんでくれるだろうか、ということを漱石は書いてます。
 
 
漱石はいろんな作品で、お前はなんで結婚しなかったんだ、という内容をさまざまに描きだしています。生涯独身だった子規に宛てて書かれた手紙としても、読むことが出来るのではないかと思いました。漱石は小説内で「僕はまださいを貰った経験がないから」とよく書いている。これについてのさまざまなバリエーションがあるんです。
 
 
漱石は、この物語で須永といとこの千代子の、恋愛に結びついてゆかない関係性を描きだします。須永と千代子の描写が良いんですよ。彼岸過迄という、漱石の重々しい後期作品であっても、淡い恋愛の描写はみごとですよ。これが漱石だ、と思いました。風邪のために一時的に声の出なくなった千代子の代わりに、須永が声を出して相手に伝える。二人で電話を使って遊ぶんです。
 
 
『彼岸過迄』を全文は読まないけれども、漱石の恋愛描写を読んでみたいかたは、『彼岸過迄 須永の話 九章から十章』だけを読んでみてください。ほんの10ページで、10分くらいで読めますよ。抜き出すとその魅力が減少してしまうかもしれないんですが、すてきな物語でした。
  
 
 
 

 
 
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山羊の歌(40) 中原中也

今日は中原中也の「山羊の歌」その40を公開します。縦書き表示で全文読めますよ。
 
 
現代詩人の、初期の詩でとても印象に残った作品は、じつは中原中也の「生ひ立ちの歌」のオマージュであったのか、とはじめて気がつきました。事情がまったく判らなくても、楽しめるのが詩なんだなと思いました。
 
 
これは子どもでも大人でも、素人でも玄人でも、みんなが使える詩の原形のような気がしました。
 
 

 
 
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私の日常道徳 菊池寛

今日は菊池寛の「私の日常道徳」を公開します。縦書き表示で全文読めますよ。
 
 
これ明るい随筆なんです。(一九二六年一月)昭和がはじまる寸前の、正月ごろに記されたものらしいです。ぼくの読書サイトはタイトルが「明かりの本」なのに暗い話しや、闇の時代ばっかり紹介している気がしてどうもまずいと思っていたんですが、探してみるとありますね。明治大正昭和にも、面白い本や明るい本があります。
 
 
騎士道精神とでも言えば良いのか、事業を起こしてものすごい人数を動かすことになった人の、日々の思いが語られています。wikipediaの「菊池寛……来歴」を記した文章も同時に読んだんですがなんだか見事で、文末が良いんですよ。写真がまた秀逸なんです。この辞書ページを、書いた人すっごいファンだなと思いました。
 
 
中段で、編集という行為に関する、重要な問題がさらっと論じられているんです。これが……言語の機能に関する哲学的な議題そのもので、そういうことだったのかと衝撃を受けました。伝聞ということの問題点が洗いざらい開示されているような、そういう迫力を感じました。伝聞は、文脈が壊れていることがある。そこに注意深くしている菊池寛の随筆で、創業者ってやっぱ凄いやと思いました。本文こうです。
 
 
  人は、陰では誰の悪口でも言うし、悪口を言いながら、心では尊敬している場合もあり…………
 
 
悪口は聞き流すことにしているのだ、と菊池寛は言います。詳しくは本文をご覧ください。
 
 

 
 
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彼岸過迄(9)雨の降る日(後編)夏目漱石

今日は夏目漱石の「彼岸過迄ひがんすぎまで(9)雨の降る日(後編)」を公開します。縦書き表示で全文読めますよ。
 
 
今回の宵子の弔いの描写は、とりわけ静謐な筆致なんです。これが、後期漱石作品の重大な特徴なのではないかと思いました。自分のせいで不幸が起きてしまったと思っている千代子に対して、いろんな家族が、静かに接してくれる。不安や怒りを、漱石が鎮めるように描きだしているんです。
 
 
漱石の後期作品は前期とはまたちがう迫力があるなあ……と思いながら読みました。描写が微細なんです。小さい編み笠や藁草履や、赤い毛糸の足袋が、静かに描きだされる。とくに咲子という少女が、抑制のきいた幼子らしい態度でいるのがものすごいリアルでした。ほんの少しだけ登場する子供の描写が、えげつないほど見事に書かれています。嘉吉という幼子の行動とか、ほんの数行なんですけど、そこにほんとうに居る感じがすごい出てるんです。これが文学か! とか思いました。明治時代であっても、葬儀は現代とそれほど変わらない。自分のじっさいの記憶と混じりあってゆくのが時代を超える文学なんだなあと思いました。漱石は記憶の内部に入りこんでゆく、希有な作家のように思います。
 
 
この会話が印象に残りました。
 
 
…………
「市さん、あなた本当ににくらしいかたね。持ってるなら早く出して上げればいいのに。叔母さんは宵子さんの事で、頭がぼんやりしているから忘れるんじゃありませんか」
須永はただ微笑して立っていた。
「あなたのような不人情な人はこんな時にはいっそ来ない方がいいわ。宵子さんが死んだって、涙一つこぼすじゃなし」
「不人情なんじゃない。まだ子供を持った事がないから、親子の情愛がよく解らないんだよ」
「まあ。よく叔母さんの前でそんな呑気のんきな事が云えるのね。じゃあたしなんかどうしたの。いつ子供持ったおぼえがあって」
「あるかどうか僕は知らない。けれども千代ちゃんは女だから、おおかた男より美くしい心を持ってるんだろう」
 
 
もっと良い描写がいっぱいあるんですけど。つづきは本文をご覧ください。
 
 

 
 
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山羊の歌(39) 中原中也

今日は中原中也の「山羊の歌」その39を公開します。縦書き表示で全文読めますよ。
 
 
今回は、詩人の北原白秋におくる詩です。
北原白秋は「思ひ出」という詩集の中段で、こういう詩を書いています。
 
 
 青いソフトに

 青いソフトにふる雪は
 過ぎしその手か、ささやきか、
 酒か、薄荷はつかか、いつのまに
 消ゆる涙か、なつかしや。
 
 
これを受けて、「雪の宵」を書き記している。
 
 
「悔と悔とに身もそぞろ」という、ちょっと謎めいた文章を調べてみました。これは「悔いがあって、気持ちが落ちつかない」という、そのまんまの意味のようです。北原白秋の詩を引用しつつ、恋愛についてさっと描いている。最後の4行が洗練されていて良いんですよ……。魅入ってしまいました。
 
 

 
 
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時の流れ 鈴木大拙

今日は鈴木大拙の「時の流れ」を公開します。縦書き表示で全文読めますよ。
 
 
鈴木大拙はアメリカに禅を紹介した仏教学者なんですが、今回は、過去現在未来についての、哲学的な随筆を書いています。
 
 
過去と現在の間にラインを引くことが出来ない。今の時刻を、秒針を見ながら書き記すと、もう数秒前の過去になっちゃっている。現在を厳密に特定することがどうも、できない。この文章が印象に残りました。
 
 
  「時」は痕跡であるから、それのみを「事実」だと見て居ては、巨人の独尊者はもうそこには居ないのである。吾等の考への混雑は実に此矛盾から始まると云ふべきであらう。
 
 
ゲーテもこういうことを言ってますよ。「君たちが盛んに論じているのは十年以上前のゲーテであって、もうぼくは、とっくにその先に進んでるから、そこに拘泥していても意味無いよ」みたいなことを言ってました。
 
 
固定したり分割することがじつはできない。抽象と具体の区別もじつは、あいまいだ、と鈴木大拙は言うんです。鈴木大拙は哲学というよりも、禅の問いをここでやっているようで、独尊者という仏教語を持ってきている。wikiで調べた限りでは、「仏さまだけが唯一、苦から解脱しているので尊い」かあるいは「仏さまだけが衆生の苦を安んずるので尊い」という意味でこの言葉を使っているようです。ただ、鈴木大拙は、西洋哲学もここで同時に論じているので、とくに釈迦の教えのみを開示しているわけでは無いんです。大拙は「独尊者」のことを「彼」といって、つまり現代史の立役者について論じてもいる。また狗子仏性くしぶっしょうを説いた趙州という禅僧も独尊者の一人だったと、本稿に明記しています。
 
 
現代の歴史を捉えるって、すこぶるむつかしくって危険だよ、って鈴木大拙が言うんです。どの日本史について語っているのか、ぼくには判らなかったのですが、本文にこう書いています。
 
 
  随つて歴史が其上に何か跡づけて行くと云ふのは、本当の歴史の影を追つかけて飛びまはると同じである。手に入れたと思ふのは抜殻に外ならぬ。そんな抜けがらを捉へて後生大事と心得て居るものに限つて、生きたものを死んだものに仕替へてしまふ。即ち死骸のミイラを仏壇なり神殿なりに祭り込んで、その前に三拝九拝して、その中から後光の流れ出るのを待つて居る。鰯の頭の信心よりまだ馬鹿げて居るのみならず、こんな手合ひに限つて、自分の抽象した干枯びたミイラの押売りをやらうとする。自分だけの信心ならそれもさうで、別に他から何とも云はれず、またそれで趣きのあるものである。が、干物の押売をやる連中になると、その禍の及ぶところ誠に図り知るべからざるものがある。
 
 
えーと、つい先日、水質の汚染について考えるための環境問題プロジェクトを台湾芸術大学の学生が発表して話題となったんですが、学生とは思えない秀逸な作品なんです。
 
 
鈴木大拙が危険視しているのはこの学生たちのまなざしとはまるで無縁な、大がかりな暴力組織のことで、ちょっと引用するのもむつかしいんです……なんだか怖ろしいことを書いてしまって申し訳ないんですが、近代文学や戦前思想の読解と紹介は、もうすこし慎重にやらなきゃいけないなと思いました。くわしくは本文を読んでもらいたいんですが、最後の数行がすごいんです。
 
 

 
 
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