自己の肯定と否定と 和辻哲郎

 
今日は和辻哲郎の「自己の肯定と否定と」を公開します。縦書き表示で全文読めますよ。
これは、混乱からの回復をテーマに書いた随筆です。混乱している、ということについて悩んでいる人のための文章だと思います。
 
 
ぼくは学校で哲学を専攻したわけでは無いのですが、日本の現代哲学の代表的な哲学者の講義を聴講したり、哲学者の書いた本を隅から隅までノートに書き写したり、あるいは一人の哲学者について書いた本を何冊も読むと言うことをしたことがあります。どうしてそうしたのかというと、一番読みたかったからなんですが、自分が判らないと思っていることを、過去の哲学者がたしかに同じように(実際はより深刻に)考えているということ自体に感動したというか感心したからそれを読んでいったんだと思います。ぼくがいちばん読み込んだのは哲学者ウィトゲンシュタインの諸作です。
 
 
ウィトゲンシュタインは、「思考できない」ということそのものを、もっとはっきりと認識しようとして、「ある一つの問題について、どこまでが思考できるか」ということを明らかにし、「思考できないことを、どう扱うべきか」を検討しました。くわしくはウィトゲンシュタインの論理哲学論考とその解説書を読んでもらわないと理解不可能なんですが、ウィトゲンシュタインの本は思考の正しい例として申し分の無い哲学書だと思います。ウィトゲンシュタインは危機を乗り越える時の手助けとなり得る哲学を展開しています。
 
 
哲学書をいくつか読んだことのある人なら判ると思いますが、ふつう哲学者は悩む人に対して手助けしたいなんてことはまったく思っていません。たんに哲学の山に登りたいだけというか、哲学者としての偉大な業績を残したいだけというような無意味な哲学の記述を行う哲学者は多いです。ところが、ウィトゲンシュタインはそうではなくて、自分の悩んでいることに真剣に向き合って、自分の悩みを解決する過程で、自分と同じような混乱に陥った人の手助けとなる道具を残していった人です。
 
 
どうしてウィトゲンシュタインは、危機を乗り越える道具を提示できたかというと、本人がその時に、本物の危機と対峙していたから、というふうに解説できると思います。ウィトゲンシュタインが論理哲学論考を書いた時期には大きな戦争が起きていて、ウィトゲンシュタインは戦場の最前線に赴き、その周囲では親類の死やごく近い場での悲惨な混乱がありました。ウィトゲンシュタインは机上の空論では無く、実施的に危機と対峙して、混沌から日常へと帰るためのハシゴを作りあげました。戦争という歴史に真正面から向き合った人物であると断言できると思います。


ウィトゲンシュタインは、とにかく師の述べることを熱心に読解し、その発展を願い論理学を詳細に検討することによって自他を担保しうる倫理を打ち立てた人物です。ウィトゲンシュタインは師の説いた論理学をより完全な形へと昇華してゆく過程で、哲学や学問にはびこる大きな破綻を発見します。ウィトゲンシュタインはこれを「哲学者たちは、思考不可能なことを述べている。思考不可能なことについては、沈黙するより他ない」と述べました。


思考不可能なこと、とはどんなことでしょうか。シンプルに言えば、それは完全なるナンセンスを冗談では無く支持すると言うことです。具体例をあげれば「んりん」や「’#=,.`」については、思考することは出来ない。そんなことは当然だ、と誰もが思うのですが、正しく見えてしまう「完全なるナンセンス」を説くことはじっさいにあるのだ、ということを論理学の詳細な検討を通してウィトゲンシュタインは証明してゆきます。


ウィトゲンシュタイン哲学の一番の魅力は、考えられる領域をとことんまで正確に広げてみせる、という部分です。ウィトゲンシュタインはこれを

「論理空間」(可能性として成立しうることすべてを含む空間)

と述べています。ウィトゲンシュタインは思考の限界を超えた哲学の諸問題が多数存在している、ということを証明してみせたのですが、いっぽうで人間の思考の特徴を「現実世界」と「論理空間」との2つに分けてみせ、その鴻大な領域を私たちに教えているのです。「論理空間」においては、思考できることがすべて含まれる。つまり、ぼくが光源氏のように姫君を愛する、という事態を含むのが論理空間です。
 
 
世界…………現実に成立していることの総体
論理空間……可能性として成立しうることの総体


論理空間というのは、思考できること全てを含む空間です。実際には実現していないのですが、思考が可能なものをウィトゲンシュタインは「論理空間」と呼んだ。「ぼくは映画監督だ」とか「ぼくは文学者だ」という可能性について思考できる。実際には映画監督では無いのですが、それについて思考する時に、その思考が破綻していない。ゆえに論理空間の中には、「僕は映画監督である」という空想を形作ることが出来る。ウィトゲンシュタインはこう述べます。「人間が持つに至った箱庭装置というのが、言語である」そして、ウィトゲンシュタインは、若い頃に師のラッセルから哲学の授業を受けている時に、こんな哲学主張を行っているんです。


「この教室にカバが居ない、ということは証明できない」
 そんなバカな、という主張ですが、ウィトゲンシュタインはこの哲学主張をとことんまで追求していった哲学者なんです。論理空間では「教室にカバが居る」という事態を思考できる。では、論理空間にさえ存在できないものはなんでしょうか? そんなものがあると思いますか? ところがこれがけっこうたくさんあるわけなんです。例を挙げてみると、こういうものです。
 
・定規とコンパスのみで角の三等分を行う。

 これが思考不可能なことを記述した例です。いっけんできそうなのですが、数学に詳しい人ならこれが不可能ごとであることを知っている。

ウィトゲンシュタインは述べます。
「《ある事態が思考可能である》とは、われわれがその事態の像を作りうるということにほかならない」
ウィトゲンシュタインは、「世界」と「論理空間」という2つの領域を詳細に検討してゆきます。
 
 
思考不可能なことを言語で表記することはじつは出来る。そうしてそれを述べたり聞いたり考えてみたりすることは、いたずらに混乱を増すのみである、ゆえに、思考の限界を超えた事柄については沈黙する。ウィトゲンシュタインは「およそ語られうることは明晰に語られうる。そして、論じえないことについては、ひとは沈黙せねばならない」と書き記しているのですが、ぼくはこれらの記述を読みながら、ウィトゲンシュタインはいったい何に抵抗していたのかを考えて、戦争に果敢に参加していったウィトゲンシュタインが「戦争の発端になり得る、思考不可能な言説」に抵抗していたんじゃないかとか、あるいはウィトゲンシュタインは「自死という最大の混乱」に抵抗していたんじゃないかとか、いろいろ想像をしていたんですが、この哲学書を書き上げたのちのウィトゲンシュタインを調べるてみると、たしかに完全な混沌から平生への日々へと正確に歩んでいるんですね。自分であらかじめ予測したとおりに、思考不可能な事態から、普通の日常へと帰って行っている。
 
 
日常に戻ることを目的としている現代哲学というのがあって、その土台というのは、ポストモダン思想に近しいんじゃ無いかと思うんです。ポストモダンというのは、近代文明を超えることを目標にしている。ポストモダン思想を判りやすく説明した「金魚鉢の金魚」というたとえがあります。こんなのです。「金魚鉢の中に住んでいる金魚は、自分を包み込んでいる透明なガラス鉢を知らない。金魚鉢の中に暮らしながら、そのガラスの鉢の存在を、自分で理解できるようになること」が、ポストモダンの目標なんです。ウィトゲンシュタインはポストモダン思想を完全に肯定しています。自分たちがどうも変になっている、と言う時に、その金魚鉢の環境をちゃんと見透せて、その環境を改善することが出来るようになる、ということをポストモダン思想は目指しています。


中からは見えない金魚鉢の全体像を、見る。
そんなことがどうやって出来るのか、ということの解答があるんです。それはつまり、大きな問題を解決し続けてきた文化人に、私淑するということです。私淑(ししゅく)とは、直接教えを受けたわけではないが,著作などを通じて師と仰ぐことです。
自分の立ち位置からでは見えない壁を克服するには、外に居る人の真面目な発言を、真剣に検討してみるしかない。



たとえばチョムスキーは《自分たちがどうも変になっているぞ》という時にもっとも適切な行動は、「その異様な活動に参加しないことだ」ということを人々に啓蒙していました。日常に戻るためのシンプルな答えだと思います。
 
 
哲学者の和辻哲郎に私淑した文化人はとても多いのです。
この「自己の肯定と否定と」は、哲学者のごく短い随想です。
 
 


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 ここからは新サイトの「ゲーテ詩集」を紹介します。縦書き表示で読めますよ。
 幼かった頃の夢想のことを、ゲーテは「黄金の空想よ」と記します。ゲーテの詩には、神話的なものと理知的なものが混在していて、これが魅力のように思います。ゲーテはゲルマン神話と、とくにギリシャ神話の影響が色濃いようです。
 この詩集は生田春月が翻訳をした作品です。ゲーテは政治家としても活躍し、かのナポレオンからも尊敬されていた作家で、その言葉を詩で楽しめるというのは、なんだか嬉しいように思います。

  

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